彦根・昭和新道

マラリア撲滅と彦根城外堀

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年8月3日更新

 彦根市の銀座街から琵琶湖に向かう道は「昭和新道」と呼ばれている。「大正14年(1925)、彦根で乗合バスの運行が始まり、昭和5年(1930)には、三社のバス事業が競合するという事態に至る。こういった動きに対し、昭和6年から10年にかけて、自動車交通に合うようにいくつかの街路が拡幅されたり、建設されたり、街路の隅切りなどがなされている。」(新修彦根市史景観編)
 昭和新道は、昭和15年(1940)の都市計画法以前に、昭和9年から10年にかけて、建設された道路である。彦根城外堀を埋め、幅四間(約7・2メートル)の道路を造ると同時に、その東側に市街地を造成していったのである。城西小学校の敷地も外堀の埋め立て地の一部を利用しており、幅四間の道路は今もそのままである。
 ところが、「昭和新道は、戦後のマラリア対策により埋め立てられ道路となった」という話をよく聞く。何故なのだろう…。そしてマラリア? 今、話題の「ジカ熱」みたいなものだろうか。
 彦根のマラリアは、日本に古くから存在する「土着マラリア」で、別名を「おこり」という。高熱、吐き気などの症状が現れ、死にいたることもある伝染病だ。シナハマダラ蚊がマラリア原虫を人の血液に媒介する。
「「おこりを振う」のは彦根の人々にとって春のお添えものであった。それが、別段不思議とも思われないほど、風土病として永年顧みられなかった」(彦根市史 下冊)。春の患者は前年から病原虫を持ち越し、これに蚊が感染し、流行の因をなしていた。彦根の人々は恐れていながらも、一種の諦めがあり積極的に対策に打って出ることはなかったという。
 彦根市のマラリア対策は、昭24年(1949)1月、GHQ近畿地方軍政本部よりマラリア対策の勧告書を受け取ったことを契機に開始される。同年6月に「市立彦根マラリア研究所」を設置、「彦根市マラリア対策第一次五カ年計画」が実施されることになる。実施内容は、1. 教育・啓発、2.原虫に対する処置、3. 衛生土木である。
 その結果、マラリア患者は、昭和29年(1954)にはゼロになり、マラリアの撲滅に成功したとされている。
 『マラリア防疫を目的とした濠の埋め立てによる歴史的景観の改変ー彦根城の遺構「濠」をめぐる行政と地域住民の論争に着目してー』(京都歴史災害研究第12号米島万有子・2011年)に興味深い記述があった。
「彦根市マラリア対策の第二次五カ年計画要綱においては、濠の埋立整備事業にあたって「いかなる風光明媚な地であっても、ここに住む人々の健康を害し苦痛を加え生産に悪影響を及ぼす疾病があればその土地の大なる発展は期待し得ない」とする問題意識が表明されていた。これを鑑みると、「風光明媚な歴史的」景観だが、蚊の発生する非衛生的な景観と認識された濠を、近代的で衛生的な景観に改変する衛生土木事業は、彦根市においてはことさら、近代化に基づく発展を象徴する都市計画事業として動機づけられたように思われる。」「率先して埋め立てられた外濠は、マラリア媒介蚊であるシナハマダラカの幼虫調査の地点数は少なく、蚊の発生源を埋め立てたという事実の妥当性が欠けているように思われた。彦根市による衛生土木工事の推進には、非衛生的な「古い街」を改変し、衛生的な「新しい街」を築きあげる象徴的な意味づけが伴っており、これが景観保全と衛生事業との価値対立として表面化した一面もあったものと推測される。」
 思うに、昭和新道が、「戦後のマラリア対策により埋め立てられ道路となった」と記される理由は、外堀の埋め立てが「新しい街」を築きあげる象徴的な事業であったことに因るのではないだろうか……。
 彦根城には現在、内堀、外堀と二重の堀がある。この外堀、元は中堀であり、かつて内堀、中堀、外堀と三重の堀があった。本来の外堀は、銀座街の東の犀ヶ渕を水源とし、外馬場公園、彦根商工会議所の辺りから市民会館の前を通って松原内湖へと続いていた。西は、現在の昭和新道に沿って、まっすぐ長曽根に至り、琵琶湖につながっていた。埋め立てられた外堀は、暗渠や用水路、空堀などの形でその跡をとどめている。

参考文献

  • 『新修彦根市史 第10巻 景観編』編集 彦根市史編集委員会・発行 彦根市(2011年)
  • 『彦根市史 下冊』彦根市(1964年)
  • 『マラリア防疫を目的とした濠の埋め立てによる歴史的景観の改変ー彦根城の遺構「濠」をめぐる行政と地域住民の論争に着目してー』京都歴史災害研究第12号・米島万有子(2011年)

風伯

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