松宮商店とバンクーバー朝日軍 カナダ移民の足跡

松宮哲さん

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年4月24日更新

松宮哲さん

 今月、「松宮商店とバンクーバー朝日軍 カナダ移民の足跡」という本が発行された。著者は、彦根市開出今町在住の松宮哲さん(69)だ。戦前にカナダ・バンクーバーで活躍した日系人野球チーム「朝日」を描いた映画「バンクーバーの朝日」が公開されたのは2014年末。その時以来、DADAジャーナルが松宮さんをお訪ねするのは二度目である。「映画の公開を知り、父の増雄が記した『開出今物語』に朝日のことが書いてあったのを思い出しました。以来、朝日について調べ始めました」と、当時松宮さんは語ってくれている。バンクーバーの日本人街、パウエル街で「松宮商店」を営んでいた松宮さんの祖父・外次郎氏は、「朝日」の設立にかかわり、初期に部長も務めていたのである。
 1800年代末〜1900年代初頭、新天地をもとめ、多くの日本人がカナダへ渡った。特にブリティッシュコロンビア州バンクーバー市には、湖東地域を中心に多くの滋賀県人が移り住んだ。パウエル街は「リトルトウキョウ」と呼ばれるほどに発展し、そこで誕生したアマチュア野球チームが「朝日」である。
 低賃金でもよく働き、稼いだお金の多くを母国へ送金してしまう日本人は、当時文化の違いもあり、現地の白人たちから反感を持たれたという。彼らは反日感情にさらされ、差別的な扱いを受けることも多く、1907年には日本人街と中国人街が襲われる暴動事件も起きている。そんななかから、1914年に日系人野球チーム「朝日」は創立された。体格では劣る白人チームに勝つために、堅固な守備を鍛え上げ、バントや盗塁などを駆使した「ブレーンベースボール」を編み出し、またラフプレーに動じず、審判への抗議も行わないフェアプレーを徹底した。そして幾度もリーグ優勝を果たした「朝日」は、日系人の誇りであっただけでなく、差別や偏見を超えて地元の白人達にも絶大な支持を得たという。しかし1941年末に太平洋戦争が始まり、1942年、「朝日」の活動は途絶える。
 活動中止から50年後、1992年にカナダ在住の日系人によって初めての「朝日」の記録“Asahi : A Legend in Baseball”が出版される。それ以後評価の機運が生まれ、200年には元「朝日」のメンバーが大リーグの始球式で投球、2003年にはカナダ野球殿堂に「朝日」が選出され、2005年に殿堂入り。74名の名前が刻まれ、生存していたメンバーや、子孫たちにメダルが贈呈された。
 映画「バンクーバーの朝日」が公開された当時、「朝日」に関する書籍は2冊しか出ておらず、それがほとんど唯一の資料のようになっていた。「もっと詳しく調べなくては」と、松宮さんは調査を始めた。
 「松宮商店とバンクーバー朝日軍」は、度重なる水害のために故郷を出てカナダへ渡った湖東地域の移民の歴史と時代背景に重点を置いた「松宮外次郎の生きた時代」、そして「バンクーバー朝日軍」の2部に分かれている。
 松宮さんは、仕事のかたわら、半年に渡って県立図書館に通い、カナダで日系移民向けに発行されていた新聞「大陸日報」のマイクロフィルム資料を読み込み、「朝日」の戦績や動向を追った。また、広告にも当時の様子を知る手がかりが多くあり、「松宮商店」で野球用品を売っていたことなども明らかになった。選手や監督一人ひとりの出身地や活動期間をまとめた一覧には苦労したと松宮さんは言うが、それを見ると滋賀県出身の選手が多いことがよくわかる。監督については歴代9名のうち4人が滋賀県出身者である。
 「朝日について、父や祖父から聞いたことはほとんどなかったのですが、調べ始めたら夢中になってしまって、先祖に後押しされたような気がしましたね。資料と向き合っていた2年間、毎日のように発見があって、とても刺激的でした。これからもっと研究が進み、資料館などもできたら。」と松宮さんは話してくれた。

松宮商店とバンクーバー朝日軍 カナダ移民の足跡

著者:松宮哲(自費出版)
連絡先:090-9878-4193
※送料のみにて無料で配布されています。ご希望の方は松宮さんにご連絡ください。

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

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