工房にて
「そんな手仕事があることを知らなかった」「どうすれば応援できますか……?」
カネイ中川仏壇5代目で塗師・箔押師の中川喜裕さん(31)は、昨年11月、SNSで「木製品ならなんでも無料で漆を塗ります」と投稿、木製食器やナイフの柄、大きなものではテレビボードなど90点程の依頼品を半年かけて仕上げた。伝統工芸の技も知って欲しいと仕上げる工程もストーリーズにアップ。依頼者や依頼者の知り合いから届いた感想が冒頭のセリフである。中川さんは「若い世代は漆を知らない人が殆ど」と言う。
漆は、ウルシ科の落葉高木・ウルシの樹液から作られる天然樹脂塗料で、接着剤としても使われ、縄文時代の遺跡からの出土品もあるほどの歴史を持つ。英語の「Japan」は漆や漆器をさすこともある。熱や水に強く、抗菌性もある。美しいツヤ、手に取った者にしかわからない感触も魅力的だ。そんな漆文化を広めたいと中川さんは奮闘中なのである。
中川さんはお父様と一緒に仏壇店を営むなか、2020年、長浜曳山祭りの曳山の修復の仕事に携わった。先輩職人から伝統技術などを学ぶとともに、先輩職人がフェイスブックやブログなど、ありとあらゆる方法で漆についての発信をしていることを知る。「発信しなければ職人としての存在はないのと一緒」と言うその人に刺激を受け、自分なりの方法で漆文化を発信しようと、まず始めたのが無料プロジェクトだった。
中川さんの趣味はアウトドア。ナイフや斧の柄、テーブル、木製のぐい飲みなどのキャンプ用品に漆塗りを施して楽しんできた。水や熱に強く、抗菌性もある漆はアウトドアにはピッタリだ。更に長く使い続けるほどに味が出て、傷ついたり割れたりしても修復が可能である。モノを永く大切に使い続けたい人にはおススメのコーティング剤なのだ。
無料プロジェクトをきっかけにアウトドアで師匠と仰ぐことになる人との出会いもあり、今年4月、漆塗りを施したオリジナルアウトドア用品を販売するブランド「GNU(ヌー)」を立ち上げた。11月、買った人が漆塗りにチャレンジできる「GNU URUSHI KIT tamate-bako」が完成。輪島で作られた木製のお弁当箱にチューブ入りの漆、テレピン油、手袋、アームカバーなどと丁寧な解説書がセットされている。
漆はかぶれるとか、扱いが難しいと思いがちだが、解説書を読むと誤解が多いこともわかる。漆を乾燥させる漆室(うるしむろ)は段ボールを使った作り方も紹介。「漆室を開けるときの感動をぜひ味わってほしい」と中川さんは目を輝かせる。本当に漆の素晴らしさ、漆塗りの奥深さをみんなに知って欲しくてしょうがないという風だ。
これまでに数回開催した「tamate-bako」やフィンランドの木製マグカップ「ククサ」を作り漆塗りを施すワークショップは盛況で、県外からもワークショップ開催の声がかかるようになった。アウトドアに限らず人とのつながりもどんどん増えはじめている。そのことを「お陰様で」とか「ありがたいこと」と喜ぶ中川さんは、「家の中に手を合わせる仏壇があることは大切」とも話された。
伝統はイノベーションの連続であるという言葉を思いだす。「どうすれば応援できますか……?」
まずは使ってみることだろう。実は「応援するのではない」。中川さんに「応援していただいているのである」。それは「ありがたいこと」なのである。そしてそれは自分自身の暮らしのイノベーションなのだ。伝統の技を伝えてくれる人がいる。「ありがたいこと」である。
東近江市在住の池本義雄さん(64)から「伊吹山と鈴鹿の三山の山T(シャツ)を作った」と連絡をいただいた。そもそもTシャツに“山Tシャツ”というジャンルがあることも知らなかったのだが、お話を聞いてみると面白くて楽しいTシャツである。
池本さんは“ワイルド池本”と称して東近江市の能登川博物館で2016年に県内の野生ランを紹介する写真展、17年にはスミレの写真展を開かれた。そんな池本さんが登山を始めて山Tシャツを作るまでのいきさつはこうだ。
「1989年に伊吹山でパラグライダーを始め、ヒマラヤへ飛びに行くことになりました。それには登山技術が必要だと登山の訓練を始めると、登山の方が面白くなって……」。1991年、カラコルムルパールピーク登山・飛行遠征に参加後もパラグライダーを4年ほど続け、やがて登山が中心に。
百名山を登り終え、次は三百名山をと北海道から九州まで「登頂を目指すだけ」の登山を繰り返していた時、八ヶ岳でホテイランの美しさに感動。以降、ランが気になり始める。花の色、形、香りに加え、樹木や岩にしがみついて生きる着生ラン、菌と共生する菌従属性ランなど多様な生態にもどんどん興味が募り、県内にどんなランがあるのか、2009年から2年7か月間調査に没頭したそうだ。
調査対象とした75種のうち、58種を確認・撮影、希少種もたくさんあった。開花までに何年もかかるランもあり「葉っぱで見つけて、花の時期に行くのですが、平均で10回ほど足を運び、花に出会える感じ」なのだそう。珍しい植物だけに盗掘の現場を何度も確認する悔しさも経験された。
興味を覚えると、とことん突き詰めたい性格のようで、羨ましいほどだ。
Tシャツのことも聞かせて欲しいとお願いする。
「いろんな山で売られているTシャツは山の名前がだいたい漢字で書かれていて、登山に行くと会話のきっかけになり楽しいけど、普段着には向かないと思う」。普段着にもなるようにと、漢字は使わず、山の標高を表してもm(メートル)は付けず、山にちなんだデザインを考えたそうだ。
伊吹山はトラにまたがるヤマトタケルで、山頂付近にあるヤマトタケル像と、伊吹山の固有種「ルリトラノオ」にちなんでトラ(しっぽに注目)、鈴鹿山系の日本コバは「ヒョウの穴」と呼ばれる鍾乳石穴があることからヒョウ、銚子ケ口は頂上付近に咲くアカモノの花を擬人化、天狗堂は天狗の面をつけた少年と特徴的な山容をデザインした。
鈴鹿山系では最高峰の御池岳が有名で、日本コバや天狗堂はメジャーとはいいがたい。池本さんは、地元から登りやすい山を選び、あえて挑戦したという。デザインの意図がわからないと「何?」ってなりそうだが、知っていれば山の知識で盛り上がれそうだ。山Tシャツなのでもちろん速乾性のある素材を使っている。
「このシャツが地域おこしや山おこしにつながれば」と言う池本さん。次は花シリーズとして、山に咲くスミレを企画中。「自然保護活動につながる寄付金付きにしたいな」と構想は膨らんでいる。コロナ禍、山Tシャツで山気分を味わうのもいいかもしれない。
伊吹山デザインのTシャツは米原市の「道の駅 伊吹旬菜の森」と山頂売店「えびす屋」で、鈴鹿山系デザインのTシャツは、東近江市の「道の駅 奥永源寺渓流の里」で販売中。
「トチノキは幹回りが3メートルを超えたものを巨木と呼びます」や、「薪炭材には不向きだったことから伐採を免れたこと、栃の実は食用になるので大切にされたのでしょう」と、トチノキ巨木について教えて下さったのは東近江市に住む水田有夏志さん(62)だ。先月、『トチノキ巨木の森を守る 高時川源流域の自然と暮らしの中に息づいてきたトチノキの森』を出版された。水田さんは、県の林業技術職員として治山、造林、林業振興など森林行政に長く携わり、趣味は登山、森林インストラクターなどの資格も持ち、文字通り森の専門家である。その水田さんが、「豊かな植生を持つすばらしい森」と絶賛されたのが、長浜市北部の高時川源流の森で、著書にはその素晴らしさを知るきっかけとなったトチノキ巨木との出会いから、保全活動に至るまでの経緯が記されている。
2009年、湖北環境・総合事務所に勤務していた水田さんは「県内最大級の幹回り7.8メートルのトチノキが余呉で自生している」と報じた新聞記事をきっかけに森へ入っていく。もちろん、「トチノキ巨木を見たい!」から。2度目の登山でやっと出会えたトチノキ巨木に感動するが、ほどなく新聞で報じられた木ではなかった事がわかり、再びトチノキ巨木を目指すことになる。「巨木といっても、山の中で探すのは並大抵ではなく、道もない訳です」と水田さん。 地元の人たちの記憶などを頼りに、実際に道案内もお願いして7.8メートルの巨木にたどり着くが、この間、数多くの巨木が自生していることを知り、地元の人たちとの交流も深めていったそうだ。「今まで、湖北の山とはあまり縁がなかったことが幸いしたのかもしれません」。地元の人たちから聞いたかつての山の暮らしぶり、生活の知恵、地名の由来など水田さんは聞くほどに興味を深めていく。出版された『トチノキ巨木の森を守る』は、水田さんの深まる興味を一緒に楽しむように面白く読むことができる。
かつて高島市朽木でトチノキ巨木の伐採問題が起こったことをご記憶の方がおられるかもしれない。このことがきっかけとなり、県による巨樹・巨木の森整備事業が始まったことにも触れている。巨樹・巨木の保全とかかわりのある林業を巡っては、まだ解決策は見いだせていないが、それは林業者だけの問題ではないことも教えている。地元では、「高時川源流の森と文化を継承する会」が結成され、トチノキ巨木の森の保全と、山村文化の継承に取り組んでいる。また、豊かな自然環境を活かしながら山村振興を図るため、県と長浜市が連携して「山を活かす、山を守る、山に暮らす」都市モデル事業を展開中だそうだ。
現在、トチノキの県内最大は余呉町奥川並にある9.8メートルで、2位は余呉町田戸の8.11メートル。水田さんたちは、今後、巨木を見るツアーを行いたいと登山道の整備などを進めていると話す。「トチノキ巨木を見たい」、全てはその気持ちから始まる。ツアーの案内が楽しみだ。
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彦根市古沢町、まさに石田三成の居城があった佐和山のふもとに、歴史時代小説作家・矢的竜さんは暮らしている。
53歳で早期退職した矢的さんは、文学賞への投稿を始め、10年目の2011年にデビュー。年に約一冊のペースで書籍を刊行してきた。そして今年3月、石田三成を主人公とした新作小説『三成最後の賭け』が新潮社から発売された。
6年前、学生時代を過ごした彦根に終の棲家をかまえた矢的さんは、日々佐和山を眺め、週に一度は佐和山に登る暮らしをしながら、いつかは三成についての小説を書こうと思い続けてきたという。しかし、関連書物に描かれる三成には悪いイメージがつきまとい、矢的さん自身、豊臣秀吉におもねる、才気走った人物というイメージがなかなか払拭できなかったそうだ。
「しかしそうしたイメージが本当かどうか? どんな人間にも裏表があり、裏の面が強調されるほど、それは後の歴史の中でつくりこまれたものなのではないか。歴史学では、記述され、残っているものが真実という見方がされる。しかし歴史を残す側にとって強敵であるほど、その人物は酷く書かれると思われるし、書かれていない歴史を感じ取るためには、ひとつの事件だけでなく、当時の流れ全体をみて、正邪を判断するべきだと思います。」
定説とされていることを疑うことがつねに自身の小説の根底にある、と語る矢的さんは、従来のダーティーな三成像を覆す着想を探していたという。三成の悪いイメージを決定的にしている最大の要因として矢的さんが注目したのは、関ヶ原合戦で敗れながら、潔く自決せず、配下の者を見捨てて古橋村(現在の長浜市木之本町古橋)の洞窟まで落ちのび、身を隠していたことだ。当時の美学を知っていながら、なぜ三成は死を選ばなかったのか。死に切れなかった理由があるのではないか。
それを追求していくなかで矢的さんが思い立った設定が、豊臣政権の基盤を大きく動揺させる結果となった「唐入り」(朝鮮および明への侵攻)が徳川家康の陰謀であり、三成は主君である秀吉の意向に反してもそれを阻止し、争わずとも国土を平和に治める方法を進言しようとしたこと。そして、泥沼化した唐入りが秀吉の死によって終結することとなった際、太平洋戦争で日本軍が配下の者や民間人を置き去りにしたような悲劇を起こさせず、見事に引き上げた功績が三成の手によるものだったと想定することだ。小田原征伐、家康と上杉景勝の国替えなども、家康と三成の対立構図としてとらえ、「新しい歴史解釈が提示できたと思う」と矢的さんは語る。
物語では唐入りから関ヶ原までの16年間にわたる三成と家康の水面下での確執とともに、絶対服従していた秀吉の主君としての衰えに絶望し、心が離れていく三成の心情も丁寧に描かれる。結果として面従腹背の臣下となっていく三成だが、「優秀な上司でもその資質が失われていく時がある。そのとき部下はどうするか。それは現代に通じるテーマ」と矢的さんは指摘する。
小説を書き出すきっかけとなったのは、三成が最後に身を隠した洞窟を訪れたことだという。「洞窟まではきつい山道で、関ヶ原から逃げのびてきたことを思うと、よほど死んだ方が楽だったのではないかと思った」そう話す矢的さんは、小説のはじまりを、三成の少年時代に設定している。舞台は、三献の茶のエピソードで有名な地ではなく、三成の最後を知る人であれば必ず驚くだろう場所である。
逸話や定説に固められた歴史ではなく、生身の人間としての人物を見つめようとする矢的さんの三成像を、ぜひ堪能してほしい。
昨年秋、ラッパー 慎 the spilitとDJ MINIYONのライブを見に行くため向かったのは、長浜市立北中学校の体育館。生徒を対象としたPTA主催の「講演ライブ」だった。
慎 the spilitこと佐々木慎さん、MINIYONこと田中孝史さんは、それぞれ作業療法士として働きながら、音楽活動をしている。ふたりは滋賀医療技術専門学校を卒業後、同じヒップホップ・ミュージックのジャンルで活動するOB同士として出会い、一緒にステージに立つようになった。作業療法士として働くなかで日々感じていることをヒップホップ・ミュージックで伝えたいという思いが、ユニットを組むきっかけだったとふたりは話す。
作業療法士とは、医療や介護などの現場で、日常生活に関わる活動などを通して、そのひとらしい生活ができるように支援する仕事だという。療法の対象はさまざまで、佐々木さんは豊郷病院の精神科病棟で、田中さんは近江八幡のヴォーリズ老健センターで働いている。
佐々木さんは「うつ病や認知症など、こころの病気や障害は、周囲からは辛さが想像しにくいし、誤解もされやすい。自分も、かかわるまではそうだったと思う。でも、そうなった背景には何があるのか、どんな思いをしているのか、それを代弁するような形で曲を書いている」という。
ヒップホップ・ミュージックといえば、DJがプレイする音楽に乗せて、韻を踏みながらリズミカルに話すようにうたう「ラップ」。一見、作業療法士の仕事とは無縁な、意外な組み合わせのようにも思える。けれども、アメリカの黒人ストリートカルチャーから生まれたヒップホップの歌詞の内容として大切にされているのは、地元や自身のコミュニティに根ざした、「リアルな自分の思い」を表現すること。だからときに、ラッパーが唄う歌詞は自伝的であったり、日記のようであったりする。
「滋賀のことを伝えるのはもちろん、作業療法士の自分にしかできないことを表現した。それで少しでも病気への理解が広がったら」と佐々木さんは話す。
昨年一月には慎 the spilitのアルバム「LAKESIDE B」が発表され、そのなかに「僕にできること 〜作業療法士として〜」という曲がおさめられた。
幻覚や妄想があったら本当にその人はダメなのかな?
そこに至るまでに何かあったんじゃないか
それを考える努力をしたい 共感なんて簡単じゃない、が
共に歩みたい 共に感じたい 共に悩みたい
と佐々木さんは唄っている。一方曲提供などでアルバムに参加した田中さんは「作業療法士の仕事は、そのひとの生活や、やりたいことを支える仕事。自分がやりたいことを大切にしていなかったら、ひとを支えられる訳がないから、音楽も手を抜けない。仕事も10年以上続けてきて、作業療法士としての経験をなにか返せることがあればと思っていた頃に、彼と出会えた」と話す。
その日の講演ライブでは、突然の爆音ライブにはじまり、最初はぽかんとしているように見えた生徒たちも、佐々木さんの話に徐々に引き込まれていったようだった。終演後、一緒に座席を片付ける佐々木さんを囲んで話しかける生徒や、ラップのまねをしながら教室へ帰っていく生徒たちがいたのが、なんだかいい風景だった。
山内喜平さん
昨年末、友人が「とっても物知りで、色々なお話を聞かせてくれる人」と引き合わせてくれたのが、長浜市木之本町古橋にお住いの山内喜平(90)さんだ。「何の話がよろしいか?」と山内さんは記憶の引出しのどこを開けるかを私たちに委ねたほどで、引出しがどれほどあるのか、全くわからない。その日、印象深かったのは山内さんが精魂傾けられた「伊吹大根復活」のお話。大根がおいしいこの季節、山内さんと伊吹大根の話を書いておこう。
山内さんは県の農業改良普及員をしていた昭和52年(1977)、在来品種の調査をする中、生産が絶えてしまったといわれていた伊吹大根を米原市上野でただ一人育てているおばあさんが居ることを知り、種を分けてもらった。種を自宅に持ち帰り畑に捲くと、細いのやら太いのやらいろいろな形の大根が育った。「170本の内、6本だけが古文書に出てくる伊吹大根の形をしていました」。
種を分けてくれたおばあさんは「ご先祖から受け継いだ大根を高齢で作れなくなり、ご先祖様に申し訳ない」と涙を流されたそうだ。もらった種は雑種化していたため不揃いな伊吹大根しか育たなかったのだ。古文書を調べると、『和漢三才図会』(1712年)の「江州イブキと相州カマクラに鼠大根あり、太短く、味甚だ辛く食通これを重んず」と、『大和本草』の「伊吹大根は江州伊吹山に自生、根短くも肥大、その先ネズミの尾の如し、その味甚だ辛し、煮ると甘く、ネズミ大根という」に行き当たった。山内さんは“太短く、ぽってりと丸い形”を伊吹大根の基本形と決め、その6本をハウスに移して種を取り、その種から伊吹大根の形をしたものだけを育て種を取ることを繰り返し、捲いた種の80パーセントが伊吹大根に育つようになった。
山内さんは雑種を取り除く「母本選抜」という方法を繰り返すことで安定した固定種の復活を成し遂げた。「この方法こそが育種学の基本」と話すが、費やした時間は約30年、「唯一無二の遺伝子を残したい」の一念だったという。
伊吹山文化資料館主催の体験教室「伊吹まるかじり隊」の子どもらが育てた蕎麦を打ち、食するイベントで「伊吹山では蕎麦と一緒に大根も根付いていた」と栽培の歴史を話した山内さん。この活動は14年目で、毎年講師を務めておられる(平成29年12月23日)
山内さんは大根の原産地について、諸説あるとしながらもおそらく中央アジアで、シルクロードで中国に入り日本へ伝わったと考えておられる。伝わったのは二つのルートがあり、北支系と呼ぶ北ルートで入ってきた大根は葉柄や根に赤・紫色の色がつくものがあり辛みが強く、寒さに強い。一方南支系と呼ぶ南ルートで伝わったものは白く柔らかで辛みは少なく大きく育つとも。伊吹での栽培の歴史は稲よりもずっと古いとも話され、現在多くの種類がある大根は伊吹大根の品種改良によるものも多いそうだ。「伊吹大根は日本の大根の歴史を作った文化財のような作物。作り続けなければ後世に伝えることはできない」と山内さんは言う。山内さんの種は伊吹へ里帰りして、現在、地域の伝統野菜として生産されるようになった。それでも「満足はしていない」という山内さんの家では、今も伊吹大根だけを育て食している。「ライフワークとして作り続けます」、傍らで奥様も微笑まれた。
「稲は一つも無駄がないのや、実は食べる米、藁は縄やら俵、草鞋になり、田んぼを耕す牛の餌にもなって、田にすきこんだら肥料になるしなぁ。ほして、米は連作できるのもほかの作物と違うすごい作物なんやで」と教えてくれたのは東近江市大沢町に住む野村源四郎さん(90)だ。
野村さんは農政事務所の前身にあたる食糧事務所に長く勤務、兼業農家でもあり公私ともに米作り一筋に歩んできた。「昔の農家は、冬の間はずっと藁仕事をしたもんで、正月二日がその仕事始めやった」。野村さんの記憶では、俵を作らなくなったのは昭和30年代、むしろや草鞋は昭和40年代、昭和50年代には藁仕事そのものをする人は殆どいなくなったそうだ。藁仕事が消えることを惜しんだ野村さんは、30年ほど前から趣味で干支飾りや宝船などの縁起物をつくるようになり、地元に農産物販売所「湖東美咲館」ができると農村らしいものを販売したいと12月を迎えるとしめ縄や干支飾りを出品するようになった。
この間、藁細工名人として、小学校や公民館に出向いて指導したり、作品の展示会を開いたり、その活動は県外まで広がったそうだ。そこでは、藁細工の技術と共に前述した“稲のすばらしさ”も伝えてきた。今年11月にはその功績に対し「滋賀県文化功労賞」が贈られた。
野村さんが作るしめ縄や干支飾りは150円~600円ほどで販売されている。「高いもんは売れへん。材料代はただみたいなもん」と笑う。9月に刈り取った藁は、天日干し後ハウスでも1カ月ほど自然乾燥する。鶯色ほどの緑色が残る藁が飾り物には喜ばれるので乾燥には気を使う。そうして藁をそろえる「藁すぐり」、柔らかくする「藁打ち」を行い、例年11月を迎えると迎春用の飾りを作り始める。「昔は、自分の家のしめ縄はみな自分で作ってやったんやで」。野村さんは、お金を払えば何でも手に入る時代を悪いとは言わないが、創意工夫があれば自分で作れるものがたくさんあり、役に立たないと思うものも活かすことができることを実践し、教えてくれている。きっと、元気で長生きの秘訣はそこにあるに違いない。ちなみに野村さんの年賀状は、藁細工の干支を写真にとって印刷するのが長年のパターンになっているそう。干支作りはもうふたまわり以上たち、「一番難しかったのは龍やな。簡単なのはヘビや」。戌はどちらなのかお聞きするのを忘れてしまった。
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ダンスホール紅花にて photo by Junko Kanazawa
野本由香さんが彦根にやってきたのは、今からちょうど20年前、1997年5月だった。生まれ故郷である愛媛県松山を出て住んだことはなかったという野本さんは、結婚と同時に、それまで縁もゆかりもなかった滋賀県へ移り住んだ。
新しい住処を決めるために訪れた滋賀。夫の職場への通勤を思えば、大垣や長浜あたりも候補地になっていたという。けれども何ヶ所か見ていくうちに、彦根だ、と思ったと野本さんは振り返る。その理由を訊ねられると、すこし考えて、「城下町であること、文化的な雰囲気があると感じたことでしょうか…」とことばにしてくれた。生まれて初めて離れる松山の城下町が、当時の野本さんの頭をどこかよぎっていたのかもしれない。
野本さんが誰なのか、という説明はすこし難しい。自彊術という健康体操の講師として教室をもっているほか、彦根を映画で盛り上げる会のメンバーとして映画ロケスタッフへの炊き出しや差し入れに張り切り、町家を活用したゲストハウス「本町宿」で宿泊者への朝食づくりに加わり、今年からは「学童の先生」として放課後の小学校にも通うなど、さまざまな活動に参加している。「やりたがりなんですよ、料理も大好きだし」という野本さんだが、そうした活動に加わるようになった最初のきっかけは、音楽のライブイベントの企画だった。ライブ企画をはじめたことで人のつながりが広がり、現在の多岐にわたる活動への参加に結びついているのだという。
野本さんが初めて彦根でライブを企画したのは2009年、「井伊直弼と開国150年祭」の市民創造事業の助成を受けて開催した「開国ライブ」。以来、即興を中心とした、言わばアンダーグラウンドな音楽を、10年近く企画し続けてきた。彦根にはライブハウスなど音楽イベント専用の場所が乏しく、必然的に、どの企画も場所探しとともに始まった。「でも、おもしろい場所を見つけて、その場所に合う内容を組み立てるのが楽しい」という野本さんが特別思い入れを持っているのが、和風礼拝堂スミス記念堂だ。ここで海外でも評価の高いギタリスト河端一のシリーズ企画を開き、伝説ともいえるようなライブを、主催者という立場で目の当たりにした。その経験が、野本さんをライブ企画へとつよく駆り立てるようになった。
昨年からは、かつての花街・袋町のなかの空き店舗を借り、イベントホール「ダンスホール紅花」の運営に携わっている。「もうそろそろ最後というこのタイミングで、自分が本当にほしかった場所をつくることができた。しかも、奇跡みたいに人のご縁で転がり込んできたもので、今でもなんだか実感がないくらい」という。紅花の立ち上げと前後する頃だったと思うが、野本さんから「夫の退職を機に、松山へ帰る」と聞かされた。紅花の運営は、この夏から若手スタッフが引き継いでいる。
音楽を愛しながらもジャンルにこだわりはないという野本さんは、意外にも家ではあまり音楽を聴かないという。一期一会の即興音楽に惹かれるように、ライブの生演奏を聴くのが好きなのだ。
「紅花を得たあたりで、わたしが彦根でやってきたことがひとつ結実したと思っているけれど、あとを運営する人たちが、必死に守る必要はないと思う。紅花の場所でいくつものお店が生まれて消えたように、あの場所の長い歴史の一端に、わたしたちの秘密基地があった…そう思うと面白いよね」と笑う野本さんの話を聞きながら、場所と音楽とその場につどう人たちとの、その時限りの輝きを大切にしてきた野本さんの企画の風景を思い出していた。野本さんに励まされて、音楽イベントを企画するようになった人たちのことも。野本さんが彦根に残してくれたものは、紅花という場所だけではなく、その「即興のこころ」なんだと思った。
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松宮哲さん
今月、「松宮商店とバンクーバー朝日軍 カナダ移民の足跡」という本が発行された。著者は、彦根市開出今町在住の松宮哲さん(69)だ。戦前にカナダ・バンクーバーで活躍した日系人野球チーム「朝日」を描いた映画「バンクーバーの朝日」が公開されたのは2014年末。その時以来、DADAジャーナルが松宮さんをお訪ねするのは二度目である。「映画の公開を知り、父の増雄が記した『開出今物語』に朝日のことが書いてあったのを思い出しました。以来、朝日について調べ始めました」と、当時松宮さんは語ってくれている。バンクーバーの日本人街、パウエル街で「松宮商店」を営んでいた松宮さんの祖父・外次郎氏は、「朝日」の設立にかかわり、初期に部長も務めていたのである。
1800年代末〜1900年代初頭、新天地をもとめ、多くの日本人がカナダへ渡った。特にブリティッシュコロンビア州バンクーバー市には、湖東地域を中心に多くの滋賀県人が移り住んだ。パウエル街は「リトルトウキョウ」と呼ばれるほどに発展し、そこで誕生したアマチュア野球チームが「朝日」である。
低賃金でもよく働き、稼いだお金の多くを母国へ送金してしまう日本人は、当時文化の違いもあり、現地の白人たちから反感を持たれたという。彼らは反日感情にさらされ、差別的な扱いを受けることも多く、1907年には日本人街と中国人街が襲われる暴動事件も起きている。そんななかから、1914年に日系人野球チーム「朝日」は創立された。体格では劣る白人チームに勝つために、堅固な守備を鍛え上げ、バントや盗塁などを駆使した「ブレーンベースボール」を編み出し、またラフプレーに動じず、審判への抗議も行わないフェアプレーを徹底した。そして幾度もリーグ優勝を果たした「朝日」は、日系人の誇りであっただけでなく、差別や偏見を超えて地元の白人達にも絶大な支持を得たという。しかし1941年末に太平洋戦争が始まり、1942年、「朝日」の活動は途絶える。
活動中止から50年後、1992年にカナダ在住の日系人によって初めての「朝日」の記録“Asahi : A Legend in Baseball”が出版される。それ以後評価の機運が生まれ、200年には元「朝日」のメンバーが大リーグの始球式で投球、2003年にはカナダ野球殿堂に「朝日」が選出され、2005年に殿堂入り。74名の名前が刻まれ、生存していたメンバーや、子孫たちにメダルが贈呈された。
映画「バンクーバーの朝日」が公開された当時、「朝日」に関する書籍は2冊しか出ておらず、それがほとんど唯一の資料のようになっていた。「もっと詳しく調べなくては」と、松宮さんは調査を始めた。
「松宮商店とバンクーバー朝日軍」は、度重なる水害のために故郷を出てカナダへ渡った湖東地域の移民の歴史と時代背景に重点を置いた「松宮外次郎の生きた時代」、そして「バンクーバー朝日軍」の2部に分かれている。
松宮さんは、仕事のかたわら、半年に渡って県立図書館に通い、カナダで日系移民向けに発行されていた新聞「大陸日報」のマイクロフィルム資料を読み込み、「朝日」の戦績や動向を追った。また、広告にも当時の様子を知る手がかりが多くあり、「松宮商店」で野球用品を売っていたことなども明らかになった。選手や監督一人ひとりの出身地や活動期間をまとめた一覧には苦労したと松宮さんは言うが、それを見ると滋賀県出身の選手が多いことがよくわかる。監督については歴代9名のうち4人が滋賀県出身者である。
「朝日について、父や祖父から聞いたことはほとんどなかったのですが、調べ始めたら夢中になってしまって、先祖に後押しされたような気がしましたね。資料と向き合っていた2年間、毎日のように発見があって、とても刺激的でした。これからもっと研究が進み、資料館などもできたら。」と松宮さんは話してくれた。
「岡田兄弟」の所属する「岡田音楽事務所」は、伊吹山のふもと、米原市村居田という集落にある。まわりには田んぼが広がり、野山が近く、夏にはホタルが舞う。「音楽事務所」という言葉が不似合いに思える、そののどかな風景のなかで岡田兄弟は生まれ育ち、それぞれ、歌を歌い、演奏活動をし、音楽教室などを開きながら暮らしている。
岡田兄弟は、長男・健太郎さん、次男・和宏さん、三男・通利さんの三兄弟。お母さんが音楽大学の声楽科出身で、お父さんも地元の合唱サークルに所属していたという岡田家では、「晩ごはんを食べた後、お母さんの弾くピアノに合わせて童謡を歌ったり、ほのぼのやっていたんですよ」と健太郎さんは話す。歌うことが一家団らんの一コマだった兄弟たちは、のびのびと音楽に触れて育ったのだろう。健太郎さんが小学5年で全国童謡歌唱コンクールの子ども部門で優勝し、その3年後には一家で出場した同コンクールのファミリー部門でも優勝するなども経て、それぞれ自然と歌うことを選んでいった。高校生になるとクラシック音楽の基礎を学び、三人とも音大の声楽科に進んだと、こともなげに言うので驚く。
高校生の頃から作詞作曲を始め、ポップス音楽もやっていた健太郎さんの誘いで、2001年頃から健太郎さんと和宏さんはボーカルユニット「Family~おかだ兄弟~」として活動するようになる。やがて東京に拠点を移し、2006年にはドラマ挿入歌となった曲「矢印」でデビューした。東京のライブハウスで地道に音楽活動をする傍ら、関西圏でも滋賀を中心に学校公演などを展開。2007年からは地元に拠点を戻し、岡田音楽事務所を開く。この頃からバリトン歌手でカホン奏者でもある通利さんも参加して、三兄弟で活動するようになった。しかし2009年、活動を休止することになる。
それからは、健太郎さんはピアノ弾き語りによるソロ活動を始めたり、通利さんは演奏機会に参加したり、それぞれ音楽教室を開くなど、おのおののペースで音楽活動を続けてきた。活動を休止する前について和宏さんは、「三人それぞれのやりたい音楽が今いちわからず、おもしろくなくなってきてしまっていたんだと思う」と振り返る。それぞれが独立して音楽活動を続けて6年が経った頃、浅井文化ホールから、三兄弟でのライブをしないかと誘われたという。
「できるかなあ」と思いながら音を合わせてみると、6年間にそれぞれがやってきたことがうまくかみ合い、アイデアを出し合いながらリハーサルを重ねるごとにどんどん曲が良くなっていき、「音楽をやり始めた頃の楽しさを思い出すようだった」という。「ひとりひとりの音楽活動が当たり前になったなかで、やりたいときに三人で集まろうという段階になれた」と通利さんは話す。そうして開かれた2015年7月浅井文化ホールでのライブをきっかけに、兄弟はまたともに演奏活動をするようになった。その記念すべきライブを収録したCD「流星音」も、昨年発行した。「流星音」は、ライブに合わせて和宏さんがつくった新曲の名まえだ。兄弟の声のアンサンブルに乗って疾走感のある旋律が駆け上がっていく、過去に思いを馳せながらもあかるく未来を鳴らしていくような曲だと思った。
「6年間も時間を置いたけれど、一緒にやってみたらやっぱり『兄弟』で『家族』だった」という和宏さんの言葉が印象的だった。両親に教わり、家族で歌い、鳴らしながら覚えていった音楽を、それぞれの今を重ねながらまた鳴らすことは、この兄弟にとっては自然なことなのだろう。
「八男」という詩人に会ったのは、長浜の、とある喫茶店だった。八男は、この喫茶店に思い出があるという。八男と喫茶店は、詩をつうじ、引き寄せられるように出会ったのだ…。が、その経緯にまつわるお互いの記憶は、まったく違うものだった。
「僕の記憶、ぜんぜん違いましたね」と八男は苦笑いしたが、どちらが本当でもかまわないと思うような物語だった。そしてそんな思い違いもなぜか、「詩」のようだと思った。
そもそも詩とは、詩人とは、なんだろうか。
八男と詩の出会いは幼少時。父親が趣味で詩を書いていた。「だから、親というものは詩を書くものだと、どこかで思っていたんですよね」という。やがて19歳の時、詩人と郵便配達夫の交流を描いた映画「イル・ポスティーノ」を観て、詩人をこころざすようになる。
それから一年ほど後の夏、中国に留学していた八男は、電車で大陸を長旅していた。まったく進まない電車のなかで、いらだちをぶつけるように初めて書いたのが「自転車」という詩だった。この詩が滋賀県文学祭で賞を受賞し、翌年もべつの詩で受賞した。八男にとって詩は高尚なものではなく、庶民である自分が肌で感じていることが胸のなかであたたまり、高まり、ある時「ボンッ」と出るものだという。
イベントに招かれたり、一年間毎週10本の詩を書いて朗読するライブを地元・山東町でおこなったりと精力的に活動していた時期もあるが、現在は年に数回の朗読ライブを主催する程度と言い、「こんなんで詩人って言えるんですかね」と、八男は何度か口にした。
けれども、音楽やスタンダップコメディや、あるいは日々の仕事といった、べつのことをしていても、不思議と詩人に揺り戻されてしまうのだという。40歳を迎える今年、声がかかったのが、日本を代表する詩人・谷川俊太郎の詩を朗読するイベント「俊読」だ。谷川氏のほか、気鋭の詩人、俳優なども同じ舞台に立つ。
「自分が何者かわからずいろいろやってきたけれど、節目節目で詩人として立たせてもらう機会をもらって、やっぱり『詩人をやれよ』って言われてるような気がしてる」。
詩の会などに属さない八男の師匠は、大阪の漫談家・テントというひとだ。八男は、「テントさんは芸人の皮をかぶった詩人だ」と思うのだという。「書くことだけでなくて、『これは詩なんじゃないか』という状況を感じるのも詩だと思う」。それならやっぱり、八男は詩人なんだろう。
書画骨董を収集する人にとっては、目当ての品を探し出して手に入れることがやはり一番の楽しみらしい。探すこと、手に入れることは、その後飾ったり用いたりすることよりも大きな喜びなのだという。
長浜で表具の仕事をする清水達也さんの場合は、そうした数寄者とは少し違う。まず、興味の対象は地元湖北に所縁のある書画家に限られている。「絵の出来がよいとか、表具がどうなっているかということよりも、間違いなく地元の人かどうかということがまず気になるんです」という清水さんは、中川耕斎など、この辺りでは知られている書画家の作品だけでなく、今や無名になっており、見向きもされない書画家の作品も求める。わずかな手がかりを頼りに、そうした書画家の作品を見つけた時や、「何かにおうな」と手に入れたものがやはり地元の人の作品だと分かった時は、「もう、やった!という感じですね」。こうしたことを重ねていくと不思議にものがものを呼び、巡り合わせのように発見することもあるという。
表具屋の2代目である清水さんがこの仕事に専念するようになったのは8年ほど前。それまではサラリーマンとして働く傍ら、主に襖の貼り替えなどをする家業を手伝っていたという。20代頃、お父さんの仕事場に積まれた紙の山の中に、明治時代の地元の作家の葉書をたまたま見つけた。お父さんは掛け軸の仕事は手掛けなかったが、清水さんは独学で掛け軸の勉強を始めた。そうしているうちに、書画家に興味が深まっていったという。
今月上旬まで、清水さんの元に集まった作品で「湖北の書画家30人展」が開催されていた。書画そのものよりも、書画家について知ってもらうことを重視した展示にしたかったという。「古いし誰が描いたのかわからないしと、捨てたり燃やしたりしてしまう方も多いんですよ。『うちにある屏風を描いた人かな』と気づいて、残そうと思ってもらえればいいなと思います。ぼろぼろになっていても、洗いをかけたり、表装し直すこともできますし」。会場には「めくり」といわれる表装されていない書画もあった。表装されていないばかりに日の目を見てこなかった作品、たまたま本に載らなかったばかりに忘れられてきた書画家、そうしたものに焦点を当てる試みだった。
書画に携わり、書画を長く美しく残すための表装の仕事をする清水さんは、こうした日本の文化を維持していくことの難しさを特に感じている。博物館や美術館の学芸員と、骨董商は、どちらも近い分野で仕事をしながらもがまじわる機会は少なく、もし交流があれば、もっと新しい発見に繋がるのだろうな、と思うこともある。また、家にある「お宝」を博物館に預けたいという人は多いと聞くが、博物館の限られた展示機会で、日の目を見ることができる作品は少ないと聞く。このままでは日本に何が残るんだろうという漠然とした不安や、自分に何ができるだろうという気持ちがあるという。
それでも、先の展示会に足を運んでくれた方のように、書画に興味を持つ人は多い。「一緒に勉強していけるひとを増やしていけたら、楽しいばかりやな、と思いますね」目当ての品を探すこと、手に入れることの先の楽しみを、清水さんは思っている。
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「瓢箪の大会で内閣総理大臣賞を取った方がいる」と聞き、早速伺った。受賞されたのは彦根市三津町にお住まいの藤野孝男さんだ。
藤野さんのお宅の玄関に飾られた「それ」が瓢箪だとは、すぐには思い至ることができなかった。確かに瓢箪の形をしているが、四角形や三角形が連続した幾何学模様が、立体的に彫り込まれているように見える。木でつくった彫刻かと思ったが、そうではない。
ひとつの瓢箪を加工したもので、藤野さんが考案した「落とし込み」という技法なのだという。例えば小さな三角形の形をカッターで切る。切った三角形を、慎重に「こんこん」と叩き、瓢箪の厚み(1センチほど)の半分、つまり5ミリほど落とす。そしてその周りをまた同じ形に切り、5ミリ落とす。その作業の連続で、この立体的な幾何学模様がつくられるのだという。技法に辿りつくまで半年ほど、制作にはふたつで合計800時間ほどかかっているという。この瓢箪こそが全国愛瓢会主催の展示会で「内閣総理大臣賞」を受賞した瓢箪だった。
藤野さんと瓢箪の出会いは5年前。退職して時間ができたところに、親類から「瓢箪を育ててみては」と苗をもらったことがきっかけだった。何も知らずに育てた1年目の瓢箪は失敗だったというが、人に瓢箪を分けてもらい、色を重ね塗って研ぎ出す技法を試しにやってみた。教えられたことを何も分からずにただやってみたというが、最初から県の展示会で金賞を受賞。全国大会にも出展し、「瀬戸内海放送局長賞」を受賞してしまったという。
持ち前の性質ゆえか、「徹底的に美しくしないと気がすまない」という藤野さんの作品にはなるほど、細かい配慮と丁寧さ、途方もない労力を厭わない忍耐づよさが伺える。しかし早々に全国レベルに達してしまった藤野さんは、なにより瓢箪に愛されているのだろう。
そうして瓢箪を育て、加工するようになった藤野さんだが、今や「瓢箪は空気みたいなもんや」と話す。瓢箪を種から育て、配合し、土の状態を管理したり実の大きさや形を整えながら毎日世話する。そしてその横の作業場で毎日こつこつ加工をする。藤野さんの1日、1年は瓢箪とともにある。
「瓢箪から駒という言葉がありますよね」と言うと、「これが瓢箪から駒や」と藤野さんは馬が透かし彫りされた瓢箪を指差した。「透かし彫りはもっと細かいものをつくれるようになったけど、それでもこれは自分の作品のなかで一番大好き」と話してくれた。
「瓢箪から駒」……まさかというようなあり得ないことのたとえを意味することばだ。じつは藤野さんのお宅に伺うまで、「瓢箪の大会」では瓢箪の大きさを競うのかな、という安易な想像をしており、こんな創造的な世界とは思いもしなかった。まさに、「瓢箪から駒」な驚きだった。
]]> ごく幼い子どもの頃、夢と空想と現実は、お互いもっと近しいものだった。現実と空想が混ざり合った夢を見たし、夢の続きを現実に空想した。自分にしか感じられない姿や音もあったように思う。自分にしかわからないし、いつでも感じられるわけではない。けれど自分だけに感じられるからこそ、大切だった。
「ローズとライオン -まほうのだいぼうけん-」という絵本を読んだ時、そんな子どもの頃の感覚を思い出した。ある夜、ローズが窓からのぞいていると、魔法の国からやってきたライオンたちが海にあらわれる。そのなかの一匹にローズが飛び乗ると、ライオンは空高く舞い上がる。星座の間を無尽に駆けめぐる宇宙の冒険がはじまる……
アメリカ人絵本作家デイビッド・T・グリーンバーグがアンリ・ルソーの「眠るジプシー女」にインスパイアされて書いた物語だ。この5月に、彦根市在住の奥隆子さんの翻訳で、日本で初めて出版された。
奥さんと絵本との出会いは、2年前になるという。つらい気持ちで出た旅先で、奥さんはふと、「人生には限りがある。私は夢を叶えよう」と思った。奥さんにとっての夢は、「翻訳家になること」。国語科教師として働きながら、子どもの頃から憧れてやまなかった英文学を通信教育で学び、英語科の教員免許も取得した。そしてその先にあったのが、幼い頃からの、翻訳家の夢だった。
すぐに、翻訳できる作品を探し始め、出会ったのが「ローズとライオン」だった。「ひとめぼれでしたね」と奥さんは振り返る。流れるような文章、夢見るような世界観、不思議で美しい絵に魅せられ、「絶対にこの本を翻訳したい」と思った。
出版が決まり、奥さんは英語で書かれた原文の翻訳に取りかかった。詩のような原文のリズム感や雰囲気を損なわないように言葉を選び、子どもにも伝わるように和語を用い、擬音語や擬声語を入れて分かりやすくすることを心がけながら、時間をかけてじっくり訳した。一つの言葉について何日も考えることもあったという。翻訳をしながらいつも頭にあった「日本語の美しさ、日本的な美しい感性を伝えたい」という思いは、教員をしていた頃から大切にしてきたことだった。
本ばかり読んでいる子どもだったという奥さんは、ファンタジーの世界が大好きだった。「目に見えない、不確かな世界を信じる心は、子どもの頃には誰もが持っていたものだと思う。そんな、子ども時代に置いてきてしまったことを思い出せる物語。かつて子どもだったすべての人に読んでほしい」と奥さんは話してくれた。
眠りながら見る「夢」と、将来の「夢」がなぜ同じ言葉なのか、ずっと不思議だった。通じることがあるとすれば、どちらもその人にだけ感じられるということと、感じたことを信じることで近づけるということなのかもと、奥さんと話しながら思った。
橋本勘さんと出会ったのは、春先に塩津の道の駅「あぢかまの里」で行われた道の駅まつりでのことだ。「森林レンジャー」というその肩書きの響きに魅かれて以前から会ってみたいなと思っていた。ちょうどこの日、橋本さんが入会する「山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会」がブースを出店しているということで訪ねたのだった。勝手に、森を守る「山の男」をイメージしていたから、その物腰の柔らかな人柄に拍子抜けしてしまうほどだった。
橋本さんは、大阪生まれ。2009年に父親の実家である西浅井町山門に移住してきた。山門を拠点に何かしようと考えていたところに、県の琵琶湖森林レンジャー活動事業で山門水源の森の調査・保全を行う仕事が見つかり、森林レンジャーとなった。2012年からは長浜市の職員として山門水源の森の他にも、深坂古道や奥琵琶湖パークウェイなどにもフィールドを広げて活動している。
森林レンジャーの仕事は、植生の調査や希少植物の保護、訪れる人のガイドなど多岐にわたる。動植物の知識も豊富で、調査・研究も行う。昨年は山門水源の森に群生するユキバタツバキの調査を行ったそうだ。ちょうどユキバタツバキの観察会があるとのことでお誘いいただき、観察会に参加することになった。
4月5日、観察会の日。あいにくの雨だが、山門水源の森には20人ちかくの参加者が集まった。ユキバタツバキは、日本海側の多雪地帯に生息するユキツバキと本州西南部に生息するヤブツバキの中間雑種で、両方の特徴を持つ珍しいツバキだ。最初にユキバタツバキに関する簡単なレクチャーを受けたあと、橋本さんの案内で森の中を歩く。
この森は、60年ほど前までは炭焼きの山として使われていたそうだが、その後ゴルフ場開発の計画が持ち上がり頓挫、県が公有地化して現在に至る。昔のように人の手が入らなくなったことで荒れてしまったが、2001年に発足した「山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会」の活動により少しずつ森が再生しているのだという。
そんな話を聞きながら、ユキバタツバキの群生地に到着。ちょうど咲きはじめの頃で、ぽつりぽつりと赤やピンクの花が咲いている。ツバキの株にはそれぞれ番号タグが付けられていて、その数は実に4808本にもなる。そのひとつひとつは全て橋本さんが昨年の調査で付けたものだ。ユキツバキとヤブツバキの両方の特徴を持つというだけあって、花や葉の形・色などが株によって、また同じ株でも異なっていたりする。今までどちらかというとあまり植物に興味はなかったが、こうやって話を聞いて実際に観察するとおもしろい。観察会を堪能して、さらに珍しい植物もたくさん見せてもらって、すっかり山と希少植物の虜になってしまった。
帰り際には、最近の鹿による獣害の話も伺ったが、やはり人の手が入らなくなったことで生態系のバランスが崩れ、その歪みが鹿の大量繁殖などといった形になって現れているのだという。「森を守るというのは、ただ単に希少植物を保護するというわけではなく、最終的には自分たちを守るということにも繋がっていくのだと思います」という言葉が印象的だった。
ところで、実はこの春から「森林レンジャー」の名称が改められ、市内のさらに広域に渡って森林の保全以外にも幅広い活動を行っていくことになるのだそうだ。しかし、肩書きは変わっても「森を守る」という橋本さんの使命はきっと変わらない。また近いうちに山門水源の森を訪れたいと思う。