白虎隊と共に戦った朝比奈茂吉、彦根に眠る

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2014年1月29日更新

 昨年、NHK大河ドラマ「八重の桜」に関係した事跡を湖東・湖北で探そうと思っていた。自分内ルールとして「彦根藩の戊辰戦争関連は除く」という条件付けていたので、結局、何も見つけることができなかった。不思議なもので、本年、「軍師官兵衛」の放送が始まった途端に「犬上郡青波村の村長を務めた椋原義彦という人の墓」が、彦根市中央町の蓮花寺墓所にあることを知った。白虎隊と共に旧幕府軍と戦った「凌霜隊(りょうそうたい)」の隊長の墓である。霜を凌ぐという隊の名からして、前途多難な道を貫く決意を秘めて結成されたに違いない。
 椋原義彦の名は、彦根藩家老椋原家の養子となってからのものだ。元は美濃郡上藩家老 朝比奈藤兵衛の子朝比奈茂吉その人である。
 郡上藩江戸家老朝比奈藤兵衛は慶応4年(1868)、嫡男茂吉を隊長とする凌霜隊を結成する。茂吉17歳の時である。
 郡上藩主の青山家はもともと徳川幕府の譜代大名である。ちなみに、現在の東京の「青山」は、この青山家の上屋敷があったことからこの名になった。
 「凌霜隊」は青山家へ責任が及ばぬよう、脱藩しての出陣で、旧幕府軍が勝利したときの保険でもあった。京にも近い国元では時勢に逆らうことが出来なかったため、新政府軍への恭順を示してはいたが、江戸藩邸では徳川家への恩顧を唱える勢力が圧倒的に強かった。
 「凌霜隊」は激戦を繰り返しながら籠城戦に突入していた会津若松鶴ヶ城に入り、白虎隊と共に新政府軍と戦う。結果は歴史が物語る通りである。生き残った凌霜隊員は捕らえられ、郡上藩存続のための決死隊であったにも関わらず、藩は帰還した朝比奈たち隊員を罪人として扱った。明治3年(1870)春、隊員達は赦免となるが、散り散りに藩を出て行かねばならなかった。朝比奈茂吉は父藤兵衛の実家、井伊彦根藩家老椋原家を頼り、椋原義彦として郡上藩を後にする。
 犬上郡青波村は、現在の彦根市の北部、芹川の南側に位置し、明治22年(1889)4月1日設立、椋原は初代の村長となり明治27年まで務めている。優れたリーダーシップと決断力、実行力のある村長だったに違いない。

風伯

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