餌指町の「大蔵省」・余呉町菅並の「北海道」
僕はずっと場所にある記憶やモノに宿っているはずの記憶、多分、そういうのが好きなのだと思う。勝手に考え盛り上がり、適当なところで遡るのを諦めて喜んでいる。そういう作業が気に入っている。
彦根には城下町特有の地名が残っていて、今でも、地の人は誇りを込めて旧い町名で話をする。例えば、連着町や紺屋町、伝馬町、魚屋町などだ。
「餌指町(えさしまち)には大蔵省印刷廠(いんさつしょう)があった」。
幾度となく聞いたことがあり、その度に大蔵省印刷廠の記憶を留めている構造物を見つけたいと思っていた。看板が残っているのではないかということだった。
餌指町は、江戸期~昭和43年(1968)の町名だ。餌指方が居住していたことに由来する。餌指方は、鷹匠配下で鷹狩に使われる鷹の餌となる小鳥を捕らえる役職らしい。南側には鷹匠町が隣接している。辻褄は合っている。
さて、餌指町は、明治22年(1889)犬上郡彦根町の大字となり、昭和12年(1937)彦根市餌指町、昭和44年(1969)住居表示の実施により現行の佐和町・旭町・元町のそれぞれ一部となった。現在の彦根市役所の辺りである。
今年9月、看板ではなかったがようやく「大蔵省用地」という石碑を見つけることができた。場所が判りにくいのではなく、地面より下にあったのだ。
この石碑の記憶は、日露戦争にまで遡る。開戦を前にして明治政府は戦費調達のために煙草製造を専売制に移行した。明治41年(1908)、彦根町は餌指町の敷地を提供、名古屋専売局彦根煙草製造所の新工場が建設され、明治45年(1912)操業を開始することになる。そして、昭和19年(1944)、この場所が大蔵省印刷廠となる。現在でいう独立行政法人国立印刷局である。
「大蔵省用地」という石碑は、唯一まちの中にあり、この場所が日露戦争以来の歴史を物語る記念物であるにも関わらず、見過ごされ、大切にもされず側溝の中にあるのが面白い。そういう在り方が「北海道トンネル」と同じように僕には好ましいものに思えるのだ。
「北海道トンネル」というのは、長浜市余呉町菅並にあるトンネルだ。
ダム建設用にできたこのトンネルは、あたりの小字名が「北海道」であったことから、「北海道」と名前がついている。読み方は「きたかいどう」。県内の小字名が網羅してある『角川日本地名大辞典25』によると、「きたかいと」となっている。
「海道」という地名がついているのは、北海道だけではなく、県内には367箇所。この中で「北海道」は20箇所。北以外では東、西、南、そして他にも堀、内、大、殿などなど。人名がついた海道では、小治郎・新五郎・源治郎・四郎太郎・源蔵・源七海道。旧国名の信濃・播磨・備後・近江海道など。中でも素敵なのは、初海道(うふかいどう・長浜市)、そして不問海道(とわずかいどう・高月町)だ。
「海道」とは何なのか……?
「かいと」と読むのが正しく、古代末から中世初期に新しく開拓された耕地のことをいう。つまり「北海道」は集落の北側に新しく開拓された耕地という意味を持つ。
振り返らなければ無くなる記憶がある。消えてしまえばそれまで。何処かできっと振り返る人がやってくるまで在り続けている。案外潔い。僕は、そういうところが気に入ってる。
【小太郎】