彦根も盛り上がるかもしれない「黒田武士と日本号」

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2013年10月21日更新

天九郎俊長淬刃之水(天の井)

 NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』。ドラマの主人公黒田官兵衛(1546~1604年)のルーツを巡り、長浜市や米原市が盛り上がっている。今回は彦根も「黒田武士」で盛り上がるかもしれないという話である。
 彦根市甘呂町に「天九郎俊長淬刃之水(てんくろうとしながさいとうのみず)」という石碑がある。「淬」の漢字は「淬(にら)ぐ」とも読み「赤熱した鉄を水に入れて鍛える。焼きを入れる」という意味だ。井戸があり、今も渾々と清らかな水が湧いている。「天の井」という。由緒書きに「平安朝甘呂創成時代より当地唯一の飲料水として使い来たれる霊泉にて甘呂井ともいう。後世俊長この水をつかい槍をうち天下の名工となり天九郎と名づく名工を産みし水なれば天九郎の井とも稱し今に保存されて居る」とある。
 さて、黒田節だが、「酒は呑め呑め 呑むならば 日本(ひのもと)一のこの槍を 呑みとるほどに 呑むならば これぞまことの 黒田武士」の歌詞はよく知られている。
 日本一のこの槍とは天下三槍の一筋「日本号」のことである。(ちなみに、天下三槍とは、日本号・御手杵・蜻蛉切)。
 日本号は「元を正せば禁裏、つまり天皇家が所蔵した一筋だ。正親町天皇(在位1560〜1586)から足利義昭へ下賜され、織田信長の手に渡り、豊臣秀吉が所有した由緒正しい品である。ちなみに、秀吉は後陽成天皇から直に賜ったという説も唱えられており、由緒正しいにも関わらず無銘である理由は、禁裏に遠慮した秀吉が、最初は太刀だったものを恐れ多くも腰に佩くことはできないとして、槍に直させたためだといわれる。頭上に高く掲げる槍ならば、天皇に対して不敬には当たらないという判断だ。」(『名刀伝』牧秀彦著)

 その後秀吉は、この槍を、天正18年(1590)小田原の役の韮山城攻めで功績のあった福島正則に褒美として与えた。福島正則は賤ヶ岳の七本槍として活躍した英雄であり、秀吉の側近武将の一人である。
 そして……、日本号は黒田武士、母里友信(通称・太兵衛)に呑みとられるのである。
 母里友信は黒田二十四騎(二十五騎ともいう)に数えられた逸材だった。友信が君主の名代として年始の挨拶に福島正則の屋敷を訪れた時のこと。
 友信は酔った正則に酒をすすめられたが断ると、「これを吞みほしたら、褒美に何でもやるぞ」と余りにも強要するので、しからばと、大杯で三杯も吞みほし「その槍をいただきたい」と申し出た。その槍とは日本号である。正則は「これは太閤殿下よりの拝領の槍、これだけは勘弁してくれ」と断り、他の秘蔵の槍を与えようとしたが、太兵衛は、武士に二言なしと天下の名槍をつかみ取った。いささかも酩酊した様子はなかったという。この話が「黒田節」に唄われ、日本号は日本一有名な槍となったのである。
 そしてこの天下の三槍の一筋「日本号」は「江州甘呂の住人(現彦根市甘呂町)天九郎俊長が鍛えた名槍である」と『彦根史話』には記されている。
 天九郎は、甘呂神社に祈願をこめ、奉賽の料として槍一身を献納した。「江州甘呂住天九郎俊長」の銘が刻まれており、現在も神宝として秘蔵されているということだ。
 日本号は無銘、福岡市博物館の所蔵品である。
 天九郎俊長が鍛えた槍かどうかは定かではないが、天下の名工がいたことは確かなようだ。僕は、どきどきしているのだけれど、どうだろう「黒田武士と日本号」……。

 俊長は天九郎といい甘呂と冒称した。嘉元年間(一三〇三〜一三〇五)に生れ貞治(一三六二〜一三六七)の末、六十余歳で甘呂の地で死んだと伝えられている。鎌倉幕府が倒れ、足利幕府が創設され、南北両朝が対立抗争するなど国をあげて騒乱の只中にあった時代である。
 父友長は甘露寺の住僧であったが、京都の来(らい)国俊に作刀の技を習い、甘呂に帰ってさらに精進した結果、相当名を知られるに至った。
 俊長はこの父に鍛造の技術を習った。父の死後は、名匠とたたえられた相州正宗の養子高木貞宗(江州高木荘に住す)について精錬の道を究めて甘呂に帰り、「天の井」の水に己が技をみがいた。
 俊長は刀のみだけでなく、とくに槍の名工とたたえられ、「古今銘尽大全」には、「甘露物」として記録されている。(『甘呂郷土史』甘呂老人クラブ著)

参考文献

  • 『名刀伝』牧秀彦著・株式会社新紀元社
  • 『日本刀物語』杉浦良幸著・株式会社里文出版
  • 『彦根史話・上』宮田常蔵著・彦根史話刊行会
  • 『甘呂郷土史』甘呂町老人クラブ著・株式会社栄光出版社

 

小太郎

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