近代化遺産としての 二宮金次郎像

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 多賀町 2013年9月25日更新

上草野小学校の二宮金次郎像

 文化庁によると近代化遺産とは、「幕末から第2次世界大戦期までの間に建設され、我が国の近代化に貢献した産業・交通・土木に係る建造物」であるとしている。日本の近代化にかかわる遺跡、銅像や顕彰碑も含まれ、 政治・経済・社会・教育・思想・文化・宗教といったさまざまな領域で推し進められた近代化を今によく伝えているもの、ということになる。最近、二宮金次郎像は立派な近代化遺産ではないのかと考えている。
 歩きながら本を読むのは危ない、子どもを働かすとは何事ぞと、次々に姿を消していったといわれる金次郎像だが、友人のラジオキャスターに「二宮金次郎を知っている?」と尋ねたら「通っていた小学校にありました。悪いことをすると、夜、像が動き出すと聞きました」という。恐ろしい話である。 
 二宮金治郎は天明7年(1787)、相模国栢山村(かやまむら・今の小田原市栢山)の豊かな農家に生まれる。村の境を流れる酒匂川(さかわがわ)の再三にわたる氾濫で田畑を失い、家は没落、過労により両親は亡くなった。幼い金次郎は薪を背負い、寸暇を惜しんで「論語」「大学」「中庸」等を独りで勉強した人である。
 明治37年(1904)の最初の国定教科書「尋常小学修身書」では孝行・勤勉・学問・自営という4つの徳目を代表する人物として描かれ、戦前の修身の教科書に「刻苦勉励」の人として取り上げられている。「刻苦」とは身を刻むように力を尽くし、心を労すること。「勉励」とは、努め励むことである。「刻苦勉励」の結果、偉くなった人として語られている。僕らも二宮金次郎は、親孝行をして、一生懸命勉強をして、偉くなった人ですと教えられたが、何をして偉くなったのかは知らない。

河内の風穴・八幡神社の二宮金次郎像

 金次郎は没落した家を独力で甦らせ、その実力をかわれて大名や旗本の財政再建を行った江戸後期の実践的農政家である。現代でいう農村地区の経営コンサルタントである。
 再建にあたっては、農民から搾取するのではなく、農民たちの力を強めることを考えた。無駄を省いた合理的な生活、自分たちの収入に応じた範囲内での収入と支出のバランスを指導、無利子の金融システムを構築し、領主も農民も豊かになる方向へ導くための仕組みづくりに努めた人物だったのだ。
 そして、昭和14年(1939)日本が無謀な戦争に突入する前後から、二宮金次郎像の建立が盛んになる。世の中は国家総動員体制、金次郎の勤勉・倹約の姿がクローズアップ、象徴化され、国策に利用されてしまったのだ。また、昭和15年(1940)は、皇紀2600年に当たり、銅像建立もピークだったようである。
 DADAでは、2008年11月にも、旧浅井町草野川上流にある上草野小学校の二宮金次郎像についての記事を掲載した。その時には近代化遺産としての意識は無かったが、先日、多賀町河内の風穴の入り口にある八幡神社の二宮金次郎像が皇紀2600年に建立された碑の横にあるのをみて、近代化遺産として考えるようになった。
 明治以降の国策に利用されてしまった二宮金次郎だが、農政家としてその思想を知りたいと思っている。大いに役立つのではないだろうか。

小太郎

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