漂白 宗祇法師

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 東近江市 2013年8月14日更新

林中央公園の交差点「宗祇騎馬像」

 知らないことばかりである。部屋の中でパソコンに向かっているとインターネットから情報が無制限に飛び込んでくる。街に出て足をとめれば自分自身の新発見と改めて知り直すことになるだろう世界にわくわくするのだ。
 数年前から、能登川の林中央公園の交差点に馬に乗った老人の石像が建ったことは知っていた。看板が建っていて「故郷を吟行する宗祇騎馬像」「室町時代の連歌師 宗祇法師生誕地」と書かれている。なるほどと思っていたがあまり気にならなかった。能登川町総合文化情報センターの前庭にある「種玉庵宗祇法師由緒」の碑文を読んで事情が変わった。「漂泊」という文字に気持ちが動いた。歌人西行法師、連歌師宗祇法師、俳諧師松尾芭蕉翁は日本三大漂白歌人だと記されていた。
 「漂泊」は、所を定めず彷徨う。さすらう。或いは、流れ漂うことをいう。僕はふらふらしていればそれが漂泊だろうと思っていたが、そうではない。漂泊というのは状態で、漂泊することでしか求めることができないものがあるから、彷徨うのである。

 『宗祇(1421〜1502)の出自について このたび 金子金治郎氏(広島大学名誉教授)が宗祇の父は近江国守護職 六角家の重臣 守護代伊庭氏であるとの学説(金子氏著 宗祇の父と母と)を発表されました 師が能登川町出身であるとの確定した今日 自然・人・平和を愛した師の遺徳を讃え建立するものです』(顕彰碑・建立は平成11年3月)

 宗祗法師の出生地については、近江説・紀伊説の二つがあり、紀伊説が有力だったが、金子金治郎氏の考究が学会でも認められ、顕彰の機運が高まったのだ。
 宗祗法師。何を求め漂泊に身を任せることにしたのだろう。どう見てもバランスの悪い宗祇騎馬像が僕にとって意味を持ち始めた。

雲行

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