昔、戦争があった

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2013年8月12日更新

 父は、毎年夏になると憂鬱になるらしい。どうしようもない戦争の記憶を反芻し溜息がでる。少年通信兵として出征し、フィリピンから生きて帰って来た。若い頃は何とかやり過ごせたが、同期の戦友が数えるほどになり、思うようにならない我が身を抱えながら、仕方のない溜息は毎年深くなっていく。
 昔、戦争があったのだ。
 NHK大河ドラマ『八重の桜』では戊辰戦争が描かれている。彦根藩は徳川譜代筆頭の家柄だったが、大政奉還後、開幕以来京都守護職を勤めた、その大義を貫くために、鳥羽・伏見に始まる戊辰戦争では討幕軍として戦った。彦根藩兵は近藤勇を捕縛し、会津若松城も攻めている。
 明治2年(1869)、明治新政府はこの戦いに勝利したことで、日本を統治する政府として国際的にも認められ、天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出す。明治天皇は同年、国家のために一命を捧げた人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段に「招魂社」を創建する。この招魂社が靖国神社の前身である。彦根でも同じ年、大洞龍潭寺に戊辰戦争で戦死した彦根藩士を奉る招魂碑が建立され、明治8年(1875)に招魂碑を社に改造する旨の内務省令によって招魂社造営に着手、同9年(1876)5月に招魂社は竣工する。昭和14年に滋賀県護国神社と改称され、更に、太平洋戦争終結後の昭和22年、国家神道を禁ずる占領軍の方針のもとで、護国神社は沙々那美(さざなみ)神社と改称される。その後、昭和28年再び護国神社の社名に復帰。滋賀県護国神社は戊辰戦争以来、西南の役、日清・日露戦争から太平洋戦争など、国事・国難に殉じた滋賀県出身の英霊、即ち郷土滋賀の守り神・近代日本の国造りの神を御祭神としているのである。

「戊辰従征戦死者碑」(高さ1850mm×幅900mm)篆額・井伊直憲 、撰文・谷鉄臣、書・日下部 鳴鶴。日下部鳴鶴は、明治の三筆のひとりで、廻腕法(かいわんほう)の伝達者としても有名。 明治時代に日本の書道の基礎を作り上げた人物である。

 護国神社に奉られた滋賀県出身の戦没者は太平洋戦争を含め34400余柱。境内には「戊辰従征戦死者碑」(書は日下部鳴鶴)、「表忠臼礮記」(書は日下部鳴鶴)、「北支沖縄戦戦没勇士慰霊碑」、「戦没軍馬軍犬軍鳩慰霊之碑」、「拓魂碑(満蒙開拓移民)」「第二十号掃海艇慰霊碑」などの戦没者追悼碑が建立されている。近代が戦争の連続であったことを改めて知る。
 「戊辰従征戦死者碑」は、明治29年9月に建立。碑は、慶応元年戊辰春(1868)熾仁(たるひと)親王の膝下(しっか)に諸藩の兵たちは各所で幕軍と戦って善戦し、彦根藩も藩主直憲公の命により二千の兵士が出動したこと。その功労により朝廷から賞賜として彦根藩に二万石が贈られ、藩主直憲公は有功藩士に頒ち与えたこと。下野(現在の栃木県)の戦いで19名と、陸奥(今の青森県大部分と岩手県の一部)の戦いで亡くなった藩士7名の計26名の名を刻し、その勲功を讃えている。この碑は彦根藩の碑で、会津には会津の戊辰戦争の記憶を伝える碑があることだろう。
 人が人によって傷を負わされ殺し合うのが戦争である。
 毎年8月13日〜15日に営まれる「みたま祭」は、郷土滋賀の平和のための礎となった護国の英霊を慰霊し、感謝の誠を捧げ奉る祭典として執り行われている。密林で逃げ惑う父の溜息の正体を、多分、僕は知ることはないだろう。「みたま祭」の提灯の美しさに隠れ、多くの溜息がある。聞こえない振りをし、僕は息を潜めている……。

滋賀懸護國神社

滋賀県彦根市尾末町1番59号
TEL: 0749-22-0822
http://www.shigagokoku.jp/

「みたま祭」8月13日(火)~15日(木)点灯は18時30分~21時45分まで

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

編集部

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