摺針峠

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2012年9月12日更新

神明宮からの眺望。かつて、弘法大師が植えた杉は残っていないが、その場所に石碑がある。

 峠を越える、峠を引き返す。いずれにしても断固たる決意が必要な時代があった。
 摺針峠は、中山道、番場宿(米原市)と鳥居本宿(彦根市鳥居本町)の間にある峠だ。
 修行中の弘法大師(空海)がこの峠にさしかかった時、白髪の老婆が石で斧を磨いでいた。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧を磨いて針にするのだという。大師はその時、自分の修行の未熟さを恥じた。その後、再びこの峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え、杉の若木を植え、「道はなほ学ぶることの難からむ 斧を針とせし人もこそあれ」と一首を詠んだ。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになったという。
 江戸時代、峠から琵琶湖を望む風景は中山道随一といわれ、広重の絵には、峠の茶屋「望湖堂」、入り江内湖、その向こうに琵琶湖と対岸の山々が描かれている。望湖堂には参勤交代の大名や朝鮮通信使も立ち寄り、江戸時代後期には、皇女和宮降嫁の際にも休憩されたという。

上品寺の釣鐘。「とりいもと宿場まつり」では、法海坊ゆかりの品々の特別展示がある。

 安永2年(1773)、釣鐘を四輪の大八車に載せ、江戸から摺針峠を越え鳥居本宿上品寺(じょうぼんじ)まで帰ってきた僧がいた。名を法海坊という。
 法海坊は、江州彦根在鳥居本宿上品寺第六世祐海の子で、了海が本名である。法海坊と称して全国を行脚し、多くの衆生を教化した名僧であった。江戸での高徳の名が近隣に聞こえ、吉原遊廓万字屋の花扇とその妹分の花里が、女身の罪業を嘆き、深く帰依し、仏果を得しめ給えと袖にすがると、法海坊は、百八煩悩の迷いをさます釣鐘を献ぜよと教化した。花扇・花里は、同じ苦界の遊女を勧化し、釣鐘鋳造の寄進を募った。 勧化とは仏の教えを説き、信心を勧めることをいう。
 江戸の町で釣鐘造立の勧進をして歩く法海坊の姿はよほど印象的だったのだろう、法海坊は「破戒僧法界坊」として『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)』という歌舞伎のモデルになった。天明4年(1784)の初演で主役法界坊の悪と滑稽さが喜ばれ人気を博したという。
 明和6年(1769)に釣鐘はできあがるが、花里はその釣鐘を見ることなく病で亡くなっており、釣鐘造立の初志は花扇が貫いた。中山道を下る時、花扇は、花里のために彼女がいつも着ていた花魁の打掛を鐘に着せたという。
 花魁の打ち掛けを着せられた釣鐘が摺針峠を越える。哀しくも美しい……。法海坊は、花里の心を汲んで、その打掛を袈裟に仕立てかえ、鐘の供養法要に着用した。そして、釣鐘に刻まれた吉原の遊女百八人の名は、法界坊自らがたがねをとって数ヶ月にわたって彫刻したものであるという。法海坊は文政12年(1829)正月、82歳で入寂。上品寺には、鐘を載せて曳いてきた大八車の他、錫杖など数々の品が遺されている。
 法海坊の釣鐘は、第二次世界大戦の供出を免れ、今も鳥居本の上品寺にあり、法海・花扇・花里の名を見つけることができる。

参考

  • 『彦根史話・下』宮田常蔵著・彦根史話刊行会
  • 『近江の昔ものがたり』瀬川欣一著・サンライズ出版
  • 彦根市ウェブサイト

第5回  とりいもと宿場まつり —歴史と街道の交差点「鳥居本宿」—

2012年9月30日(日)10:00〜16:00
文化財専門家の案内で佐和山城跡と城下町散策「まるごと佐和山城2012」や、「よさこいソーラン演舞」(鳥居本中学校グランド)、体験講座「楽焼絵付け体験」と「柿渋染め体験」など、数々のイベントが開催される。主催: 鳥居本お宝発見隊

上品寺特別展示「歌舞伎のモデル  法海(界)坊ゆかりの品々」

 

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

小太郎

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