「石田三成の記憶」と「大坂の陣 供養碑」

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2012年7月16日更新

 大坂の陣、冬の陣は慶長19年(1614)、夏の陣は慶長20年(1615)……。関ヶ原合戦後の二重講公儀体制が破綻し、豊臣宗家は滅んだ。二重講公儀体制とは、「基本的に豊臣・徳川の共存共栄を図る構想であり、東西分治のもと両勢力の棲み分けによる共存戦略であった」(『関ヶ原合戦と大坂の陣』笠谷和比古著・吉川弘文館)。
 彦根の大洞弁財天近く、JRの線路沿いに大坂の陣で亡くなった人々の供養碑がある。大坂の陣から84年後、元禄12年(1699)の建立。こんもりと土が盛られ、木々に覆われ、それと知る者にだけにしか判らない。
 実はこの供養碑は、「一本松」と呼ばれた塚の上に建っている。話は関ヶ原合戦まで遡る。
 慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、関ヶ原の合戦に勝利した東軍は、その日の夜には佐和山城に向けて行動を開始している。先鋒には井伊直政・田中吉政・脇坂安治・朽木元綱、小早川秀秋。翌日には徳川家康も本隊と共に正法寺山に陣をはった。籠城の兵2800人、佐和山を包囲する兵はおよそ15000人に達した。
 9月17日早朝、大手から小早川秀秋・脇坂秋月・小川土佐守・朽木土佐守らが、水の手から田中吉政、内湖側からも家康家臣らが攻撃を仕掛けた。佐和山城には、三成の父正継、兄正澄をはじめ留守をあずかる人々が詰めてはいたが、多くが老兵・若兵そして子女であったという。この時の老兵福嶋次郎作の話が、今に伝わる。
 次郎作は弓の名手で、寄せ来る包囲軍に向けて矢を放ち、自分の矢種が尽きると山田嘉十郎の名が印刻された矢を用いた。山田嘉十郎は三成の二家老だったが、関ヶ原の不首尾を聞き知りこの時既に舟で逃げていた。包囲軍側は、矢の印刻により勘違いして嘉十郎のなせる技として大いに称賛したという。福嶋次郎作は、防戦の甲斐なく敗色が濃くなると、塩硝蔵に火を放ち、大洞の経堂あたりで自害したと伝わる。
 佐和山落城後、福嶋次郎作を弔うために百姓らが塚を築き、その上に松を植え、塚は「一本松」と呼ばれるようになった。
 「一本松」に大坂の陣供養碑が建てられたのは彦根藩主井伊直興の時代である。
 直興は、日光東照宮修造の惣奉行を務め、槻御殿(玄宮楽々園)造営や松原港、長曽根港も改修した当時の建設事業第一人者である。そして、直興自らが院主となり、彦根城の鬼門除けと領内の安泰を願うと共に、近江代々の古城主の霊を弔うために建立したのが大洞弁財天である。弁財天堂横の阿弥陀堂には、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来の三尊が祭られ、彦根藩領内の古城主237人の法名・俗名の名札と、大坂の陣で討ち死にした家臣の法名・俗名の名札が奉納されている。
 「一本松」にわざわざ大坂の陣供養碑を建立する必要が直興の時代にはあったのか……。未だに三成に注がれる領民の信頼と福嶋次郎作の武勇の上に、関ヶ原での直政公、大坂夏の陣で著しい戦功をあげた直孝公への記憶を上書きしようとしたのではない
だろうか……。

風伯

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