千代宮常夜灯と柳町

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2021年11月17日更新

イントロ

石川千代松先生像

 石川千代松博士の胸像写真が必要だったので撮りに行ったときの話だ。彦根の旧港湾、かつて鮎苗協同組合があった場所(彦根市元町)、船町の交差点近くにある。昭和49年(1974)、石川先生小鮎移殖顕彰会が建立したもので、「石川先生顕彰の碑」には次のように記されている。

「石川千代松先生(一八六一│一九三五)は、琵琶湖に産する小鮎は鮎が湖内に封じ込められて出来た生態学上にいう陸封現象の所産であって鮎と別種のものではないと信じ、大正二年に小鮎を東京多摩川に試験的に移入してそのことを実証した。(中略)先きに最初の実験地多摩川の青梅大柳河原に、『若鮎の碑』が奥多摩漁業組合と土地の有志によって建てられたが、当会は小鮎の産地である琵琶湖畔の而も此の実験の原点である彦根市に、先生の胸像を建て、当会に御援助を賜った方々と共に、永く先生の栄誉をたゝえ遺徳を偲ばんとするものである」。

 かつて小鮎と大鮎は種類が違うと考えられていたが、同種であり、鮎の体の大小は環境の違いに影響されることが証明され、鮎養殖や移植放流の起源となったのだ。
 「千代宮常夜灯」は、石川千代松博士の胸像から30メートルほど南に建っている。

現在と過去


 常夜灯は街道沿いに夜道の安全のため設置されたもので、道標の役目も担っている。千代宮常夜灯は石灯籠で高さは3メートル以上はあるだろうか、「明治四十年再建」と記されている。経年変化も美しい。
 「千代宮」は現在の「千代神社」(彦根市京町2丁目)である。天岩戸神話や、天孫降臨神話で活躍する女神「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」を主祭神とする神社だ。かつて佐和山の麓(古沢町)、「姫袋」というところにあった。藤原氏の荘園があり、藤原不比等の娘が住んでいたと伝わる場所である。姫袋は現在でいうと、国道8号線佐和山トンネルの手前、マルハン彦根店の南側の駐車場からネクステージ彦根店の辺りが境内地で、ネクステージの建物のところが拝殿、更に山側に本殿があったようだ。
 千代神社と呼ばれるようになったのは明治2年からである。そして、千代神社が現在地に移されたのは昭和41年。遷宮が行われた理由はDADAジャーナル「千代神社と藤原不比等の娘」に掲載している。


 さて……、「千代宮常夜灯」の建っている場所と常夜灯の再建年代に「?」とひっかかった。千代宮への標となるはずの佐和山へ続く道沿いでないこと。明治2年には千代神社と呼ばれていたはずなのに、明治40年に再建された常夜灯の名称は「千代宮」なのだ。

柳と常夜灯

千代宮常夜灯

 僕の疑問は案外簡単に解けた。文化財保護課の鈴木達也さんが彦根市史に載っていると教えてくれたのである。『新修彦根市史 民族編』25ページ「柳町」のところである。

 「現在の元町の一部で、彦根町の北に接し、朝鮮人街道の両側に町屋が並ぶ。西側の町屋の裏は外堀である。『大洞弁財天祠堂金寄進帳』には家数六七軒、うち借家三三軒とあり、米屋五軒、小間物屋・鍛冶屋各三軒などに加え、青屋(紺染屋)などがあったことを記す。この町の北端、外船町との境付近に、昭和二十五年(一九五〇)の台風で倒れるまで、町名の由来ともなった柳の老木が立っていた。
 この柳には石田三成の妻の父宇多頼忠に関する次のような伝承がある。頼忠の妻は美人の評判が高く、琴の名手でもあったが、あるとき三成の家臣である鷹井右京という者から思いを寄せられ、相愛の仲となった。それを知った頼忠は妻を斬り殺してこの地に埋め、柳の木を植えたのだという。倒木する以前、柳の下には千代宮の常夜灯が建っていたが、この常夜灯は移されて今でも現存する。」

外舟町五六番地先の石碑

 整理すると、昭和25年(1950)まで柳の老木があり、この柳の下に件の常夜灯があったということだ。明治40年に再建された常夜灯は千代宮時代のものを移設したものだ。そして、柳は石田三成の義父宇多頼忠の妻を埋めたところに植えられていた。佐和山城時代のできごとが現在にまで繫がっている。
 では、柳の老木が何処にあったのか? 彦根城博物館所蔵の「御城下惣絵図」を調べてみたが、柳町と外船町との境付近がわからない。
 ただ、石川千代松博士胸像の近くに「外舟町五六番地先」と記された石碑がある。江戸時代舟入が設けられたところを示しているのだろう。柳町の北端であり外船町との境界あたりになる。遡る術はないものだろうか……。

 

風伯

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