湖東・湖北 ふることふみ 83
『長曽根郷土史』

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2021年8月11日更新

『長曽根郷土史 わがふるさと長曽根の歴史』表紙

 歴史調査に欠かせない情報として郷土史がある。
 郷土史作成は、行政が市史・町史などの編集時に協力した郷土史家の声掛けや歴史継承の危機感など多くのきっかけがあるが平成から令和へと時代が進む今は郷土史を作成する最後のチャンスであるとも言える。それは太平洋戦争を経験した肉声が聞けるタイムリミットが迫っているからである。
 6月に滋賀県彦根市長曽根町歴史勉強会が『長曽根郷土史 わがふるさと長曽根の歴史』を発刊されたとのニュースが流れ私も拝読させていただいた。
 長曽根は、彦根・里根と共に「三根」と呼ばれ彦根城築城以前から栄えていた地域と言われている。「根」とは山の尾根から連なる平地に開けた土地という意味があり、「曽根」という言葉になると河川氾濫ののちにできた自然堤防の意味もある。水や土壌が豊かであることは交通の要所でもあったのだろう。同書にも掲載されている彦根城築城以前の古地図を見ても長曽根村の大きさは彦根村・里根村よりも広大であったと考えられるのだ。
 私が長曽根のことを強く意識したのはNHKドラマ『真田太平記』で長曽根村に忍び小屋が作られていたことだった。ドラマの設定はフィクションではあるが、556戸の長曽根村は、彦根城築城時に井伊直勝(直継)から周辺の村々も含めて大規模な村落移転をさせられたとの記録を読むと、勝手に石田や真田の匂いを消そうとしたのではないかと関連付けて妄想したくなってしまう。
 また長曽根には「虎徹の井戸」と呼ばれる史跡が残っている。幕末京都で起こった池田屋事件。ここで死闘を広げた新撰組局長近藤勇が使用した刀こそ長曽袮虎徹興里が作刀した物であり、他の隊士たちの刀が使えなくなる程の被害を受けた激闘でも虎徹は無傷であったと近藤が身内に送った手紙に記した。このため刀剣好きだけではなく歴史ファンに認知されている刀鍛冶に長曽祢虎徹が挙げられ、その長曽祢こそが長曽根村のことと言われている。虎徹興里には越前出身説もあり刀鍛冶として活躍した地は江戸になるが彦根城築城を境として村人の移動があったならばその中に一族が含まれていた可能性は低くない。
 時は進み明治29年(1896)。琵琶湖大洪水の被害は湖岸の町である長曽根村にも甚大な被害を及ぼす。曽根という地名の由来意味を重ねてみるならば虎徹の井戸に代表される水の恩恵も水害の被害も納得できるものなのかもしれない。この水害をきっかけに長曽根村や八坂村などの人々がカナダに移住する。それらの日系人が野球チームを作り活躍した映画『バンクーバーの朝日』に繋がるのもこの地域なのだ。
 今稿では書ききれない歴史が長曽根町にある。その歴を残そうとされた『長曽根郷土史』は市販がされていないため、興味がある方は彦根市立図書館で読んでいただきたいとのことであった。

古楽

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