山内さんの 愛おしいもの・コト・昔語り「高時川に架かる橋」

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2020年11月4日更新

 ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(93)和子さん(93)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。今回は「高時川に架かる橋」のお話。
 以前、古橋では新年最初の集会を「綱打ち(つなうち)」と呼び、その名は大水が出るたびに流される高時川に架かる橋をつなぎとめるのに使う綱を作ったことに由来していると教わった。綱は、打ち藁を持ち寄り、長さ約40メートル、太さは約7センチもあり、皆で力を合わせて作った。橋を作るのも、橋が流されるたび架け直すのも住民の仕事で、喜平さんは「今でいう公共事業も、昔は住民の手でおこなわれていたんや」。
 古い橋の写真がお寺にあると聞いたが、わざわざ見せていただくのも気が引けると思っていたら、現在架かる橋の親柱にその写真があると教えてくれる人がいて、さっそく写真を撮り、喜平さんに見せた。
 日傘をさした女性は着物姿、帽子をかぶった少女はノースリーブの服を着て、綿菓子を食べているようにも見え、手には丸いものを下げている。橋は思っていた以上に高い。喜平さんは「着物を着てやはるので、縁日の日やな」。おそらく木之本地蔵の縁日の帰りだろう。さらに「橋の幅は3尺ほど。丸太を二つ割りにして、太さが揃うように天地を互い違いにしてあるんや」と話す。「怖くはなかったですか?」と尋ねると、「怖い?ほんな事は思わんな。川向うには田や畑があるやろ、仕事にいくのに怖いちゅなことは言うてられん」。以前、井立ての普請に参加した話を聞いた時、「川に入っての作業は水が冷たかったでしょう?」と尋ねると「水が冷たいちゅなことは思わん。なにがあろうとせんならんことはせんならん」と喜平さんは言ったが、あの時と同じだ。せんならんことはせんならんのであり、そのためにはどんな橋でも渡らねばならないのだ。

現在架かる橋の親柱にある過去の橋の写真

 床板に使うのは杉、橋脚は腐りにくいことから栗を使う。杉は山で大木を伐り倒し、二つ割にして、先端にV字の穴をあけてロープを通して引いたそうだ。住民総出の仕事で喜平さんも幼いころロープを引いた。「ヤットコドージャイ チョーイサー」と言う掛け声を覚えておられた。橋脚の立て方なども事細かに話してくださり、人力と知恵だけで行なわれていたことがわかる。
 大水で流された時には下流へ探しに行くので、床板には「古ハシ」と彫られていて、「南浜(びわ町)まで拾いに行ったこともあったそうや。早よう探しにいかんと、焚き付けにされてしまうでな。沖まで流され漁師が引き上げてくれることもあり、当然お礼もしていたんやで……。冬場は凍ると危ないので滑り止めにむしろが敷かれたな」、次々思い出してくださった。
 古橋周辺には上流に川合橋、下流に井明神橋があり、どちらも渡ったことがあるが、古橋の橋は話を聞くまで、渡ることはおろか、存在も知らなかった。
 昭和23年、台風で橋が流されたのを機に吊り橋が架けられたのが、公共事業で架けられた最初の橋だった。喜平さんは旧高時村役場に在職していた。圃場整備の一環だったそうで、完成したのは昭和26年。木之本小学校に勤めていた和子さんは「吊り橋を渡って遠足に行きました」と言われた。当時は地域の〝名所〟だったようだ。鉄骨造だが、床板は木製で、季節によっては隙間が空いていて、吊り橋なので当然揺れたそうだ。
 現在架かる「高時川大橋」は平成8年6月の竣工。親柱に古い写真を添えたのは、かつて橋を住民が作り、大切にしていた歴史を伝えるためだろう。向こう岸には古橋に伝わる十一面観音様とお薬師様の写真がある。

 

光流

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