湖東・湖北 ふることふみ 72
大坂蔵屋敷

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 2020年9月16日更新

彦根藩大坂蔵屋敷跡地(現・資生堂)

 戦乱の時代、街道を整備して物流を活性化させることは戦になればそのまま敵が素早く領内を進軍できることに直結し敬遠された。
 「幕府」というものは、朝廷から一時的に独自で政治を行うことを許された出張軍事機関(仮政府)との意味があるため、江戸幕府は軍事政権としての動きが優先される。このため五街道をはじめとする道の整備を行いながらも関所を設置し、軍勢が進み難い悪路であることを各地で強いた。
 物流には不向きで限界がある陸路から海路への方針転換が江戸前期において経済活動の鍵となるが、戦国時代までの船は紀伊半島と能登半島を越えることが大きな課題でもあった。江戸時代は船の規模に規制をかけられる時代でもあったが造船技術の進歩や、近江商人が主体となる「北廻り航路」と河村瑞賢による「西廻り航路」により安全な航路と寄港地が開かれる。こうして陸路物流は衰退し草津や大津に物資を留める必要性が薄れた。海路により陸路よりも早く大量に運ばれる物資の集約地が海に近く町中に多くの水路がある大坂となり商業的重要性が増すこととなる。
 そして江戸時代後期頃から各藩では地域ごとの特産品が作られるようになり藩の財政を支える戦略になろうとしていた。こうして各藩が大坂中之島周辺に蔵屋敷を置き、米や特産品を売買する拠点とするようになるが、彦根藩はやや先走りしてしまう。
 文化元年(1804)松原三湊から琵琶湖を渡り大津に物資が集積されることを無駄と考えた藩は西村助之丞に大坂屋敷地の買付・普請、留守居役を命じた。同時に大津に寄らずに瀬田川から淀川を経て大坂まで物資を輸送する航路を開こうとするが京都町奉行から叱責され、助之丞が責任を負って謹慎となる。
 しかし文化年間(1804~1818)の内には大坂蔵屋敷が機能するようになる。ただし大坂は幕府直轄地であるため蔵屋敷は藩領ではなく商人から間借りする形となった。発掘された佐賀藩大坂蔵屋敷の例で見るなら川から水を引き入れる船入があり川(彦根藩の場合は土佐堀川)から敷地内に直接入ることになる。船入の周囲は大きな広場になっており、ここで荷揚げされた米などが天日干しされてから蔵に貯蔵されたと考えられている。そして取引は米札で行われていた。そんな蔵屋敷が130近く並んでいたが各藩の武士は10人未満であったと推定されている。
 彦根藩大坂蔵屋敷は、淀屋橋より一本東栴檀木橋南側の大坂過書町(北浜)にあり現在は資生堂のビルが建っている。この地が歴史の大きな渦に巻き込まれることはなかったが、近所には緒方洪庵の適塾がある。
 隣は盛岡藩大坂蔵屋敷があり、映画化もされた浅田次郎さんの『壬生義士伝』の主人公・吉村貫一郎が悲劇的な自害を遂げた地でもあるのだ(ただし吉村の死は戦死で斬れない刀での自害はフィクションとされている)。

編集部

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