千代神社と藤原不比等の娘

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2020年8月5日更新

千代神社

不比等の娘、千代姫

 『近江の伝説』(日本の伝説19 / 角川書店)に興味深い話が載っていた。
 「藤原鎌足の子不比等は近江の国守に任じられて、よく彦根の地に足を運び、土地の神官の娘とのあいだに千代姫という姫を儲けた。この姫は成長するにつれてたぐい稀な美貌を謳われるようになった。時に高音丸と時雨丸という笛の名手の兄弟がいて、御殿に呼ばれて笛を奏しているうちに、千代姫をかいま見て二人ともはげしい恋心を燃やした。兄弟のそぶりから千代姫もそれと悟ったが、いずれを選ぶことも出来ない。そのうちに兄弟の笛の乱れが目立つようになり、お互に憎みあうさまが見えた。千代姫は、それを気に病んでいるうちに、思い屈して床に就き、とうとう露の消えるように亡くなった。恋する姫を失った兄弟は、歎きのあまり二管の笛を形見に残して、共に湖に身を投じて果てた。不比等は薄命だった千代姫を傷んで、養花院という大寺を建ててその菩提を弔ったという。
 養花院は兵火に荒廃して、その跡に慈眼院が建てられた。左手の墓地に一基の五輪石塔が立っている。これが千代姫塚である」。
 悲しい恋の物語である。高音丸と時雨丸については機会を改めるとして、不比等の娘・千代姫と現在、彦根市京町2丁目にある「千代神社」には繫がりがあった。

千代神社と千代姫

 千代神社の「千代」は、日本の国家「君が代」の歌詞にもある永久の栄えを祈る言葉「千代に八千代に」の千代だろうと思っていたが、どうやら「千代姫」の「千代」だったのだ。
 千代神社は、天岩戸神話や、天孫降臨神話で活躍する女神「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」を主祭神とする神社である。かつて佐和山の麓(古沢町)にあった。神社の創建年代は社伝によれば、第八代孝元天皇(こうげんてんのう)の皇女倭迩迩姫(やまとととひめ)の降誕によって勧請し、履中天皇(りちゅうてんのう)の御代に再建されるとある。孝元天皇は紀元前273年〜158年の人物である。彦根で最も古い神社になるのだろう。当初は千代宮(ちよのみや)といい、「姫袋」というところにあった。かつて藤原氏の荘園があり、藤原不比等の娘が住んでいたと伝わる場所である。千代神社と呼ばれるようになったのは明治2年からだ。
 「姫袋」にあった千代神社が現在地に移されたのは遠い昔のことではない。昭和8年、隣接地に野沢石綿セメント株式会社の工場が建設され、セメントの粉塵が降ってくるようになった。神社は長年降り積もるセメント粉塵に悩まされ、雨が降ると、屋根を流れた雨水が樋の形に固まるほどだったという。
 昭和38年に月産10万トンを目標に工場の拡張増設が計画され、神社境内地譲渡の申し出があり、国指定重要文化財の本殿の護持と神域保全をはかる目的で移転が決定されたのである。昭和41年3月に移転工事の竣工、5月に遷宮祭が斎行され、現在地(当時の町名は外馬場町)が悠久の静宮となった。
 「姫袋」は現在でいうと、国道8号線佐和山トンネルの手前、マルハン彦根店の南側の駐車場からネクステージ彦根店の辺りが境内地で、ネクステージの建物のところが拝殿、更に山側に本殿があったようだ。
 天照大神(あまてらすおおみかみ)が須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴を嘆き天岩戸に籠り、世界が闇になった。そのとき天宇受売命が神懸かりし歌舞されて、世の平安と明るさを取り戻した。故に天宇受売命は俳優(わざおぎ)の始祖神・芸能の守護神として歌舞・演劇等の諸芸にたずさわる人の信仰を集めている。全国的に天宇受売命を祀る神社は数少なく、主祭神として祀る神社は千代神社のみである。
 コロナ禍の不安を抱える現在、自分自身も地域も深く耕す絶好のチャンスである。千代神社に参拝すれば、未来が見えてくるに違いない。何せ、資料調べをしていたら、千代神社と千代姫が繫がったのだから。

風伯

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