湖東・湖北 ふることふみ 69
封建社会の納税(前編)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2020年6月17日更新

彦根藩の年貢集積地の一つ松原御蔵跡(現・滋賀大グランド)

 私たちはなぜ税金を支払っているのか?
 生まれたときから当たり前のように納税義務があり、その税率も勝手に決められていると感じてしまう。もちろん民主主義においては税金も国民の代表が民意で決めたという建前は成り立っているが、どうしても一方的に決まったようなイメージが付き纏う。
 税金の始まりは弥生時代辺りと考えられる。縄文時代は全員で協力して狩りなどを行わなければならないため、ムラの指導者の下で食料などは平等に分配されていた。しかし農耕が広がると個々の実力が重視されるようになり能力によって貧富の差が生まれてしまったのだ。富んだ者に救いを求める行為が主従関係を作り権力へと変化してゆく。権力者はより大きな権力と富を欲して争いが生じるようになり組織となる。組織が統合され国になり運営する必要性から階級が生まれ、階級の下に属する者は、もっと下を求めて運営に関与しない者を差別するようになる。本来は豊かな者に救いを求めた行為がいつの間にか権力者を集団が支える構造へと変わったのだ。ただし権力者は民衆から献上品を受け取る代わりに民衆を守る義務をより明確に担うようになる。簡単にいえば税金は民衆を守るための積立信託のようなものであり、権力者は民衆のために公共工事や福祉充実・外敵や自然災害の備えを行う責任を負う関係が築かれていったのだ。
 しかし、大和朝廷が国をまとめると税金の徴収が当たり前となる。平安時代になるとその甘味を狙った藤原氏が荘園制を確立させ土地や民衆の私有財産化を行い、この時点で完全な地方分権である独自の封建制度を合法化してしまったのだった。
 やがて権力の中心が貴族から武士に変わるが、民たちは自分たちを保護してくれる相手に年貢という形で納税を行っていた。地方分権であるため税率は領主によって大きく変わる。しかし無理な徴収を行うと民が反発し別の領主を望むようになるため戦国時代になると無理な徴収を行った大名家は他家に攻められ滅亡した。
 江戸時代は徳川幕府が全国の大名に目を光らせているが基本的には地方分権である。大名それぞれの判断で領内の年貢を徴収するが、一部でも幕府に納める制度はなく18世紀初めには幕府の財政は逼迫していた。幕府に対しての各大名の出費は強いて記すならば幕閣に参画する経費が個々の負担であったことと幕府が命じる公共事業も大名負担であったこと。強大な江戸幕府ですら地方分権の兆でしかなかったのだ。
 彦根藩などの譜代大名は政治に参画するため継続的な経費が必要になる。一方、全ての大名には薩摩藩の宝暦治水(木曽三川治水工事)などの特別な公共事業で一時的に多額な経費を要求された。各藩の財政は潤沢なものではないが、年貢を徴収している以上はそれを蓄えて、救民を行うのも当然の義務であったのだ。封建社会の納税とはそれほど重みがあるものだったと言える。

 

編集部

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