湖東・湖北 ふることふみ 65
幻の三代藩主・井伊直滋
私の個人的な習慣として、大晦日の夜に彦根城時報鐘で除夜の鐘を撞きに行く。この音色は玄宮園の虫の音と共に『日本の音風景百選』にも選ばれている。鐘を撞いたあと城下に戻ってからまだ誰かが鳴らしている美しい響きは、自然と1年の行いを浄化させてもらえる気持にもなる。
さて、彦根城築城のとき鐘は現在の鐘の丸に在ったとされている。誰かが意識を持って現在の場所に移動させたものなのだ。この移転を指示した人物が二代藩主井伊直孝の嫡男直滋と言われている。
直滋は、鐘の丸に設置されていた鐘の音が割れて聞こえることが気になり、時報鐘の場所に移動させるように命じる。すると清んだ音が城下に響くようになった。と、言われている。今よりも低い位置に在った鐘が岩に反響して微妙な音の不協和音を作っていたらしいが、ほとんどの家臣が実際に移転されたあとに音を聞くまで気付かない程度だったとも伝えられていることから、直滋はとても繊細、悪く言えば神経質とも言える人物だったのかもしれない。実際、直滋は歌人としても名を残しているため繊細さは持っていたはずである。
彦根藩が直滋に影響を受けているのは時報鐘だけではない。江戸に建つ藩邸の内で桜田門近くの上屋敷や現在は明治神宮となっている場所にあった下屋敷は、3代将軍徳川家光から直滋に対して贈られた場所であった。それは家光が直滋を気に入っていた証であり、直滋自身もそんな家光に対して忠誠を尽くそうとした。俗説では家光が直滋に百万石を与えようとしたとの話もある(出典不明)。ただし権力者が大きな功績のない特定の者を重視することは政治的汚点にしかならず、幕閣の重要名運営者であった直孝は家光と直滋の関係を危険視するようになる。家光の暴挙を抑えるために、自身が彦根藩主であり続けることで直滋を世に出さない方法を選んだのだった。こうして将軍に愛されながらも世子のまま30代後半を迎え、やがて家光が亡くなってしまう。その後、直滋の正室(直孝の兄・井伊直勝の娘)が亡くなった直後に寛永寺で出家しようとするが彦根藩士に連れ戻され失敗、2年後に百済寺に入って出家している。こうして3代藩主になれなかった直滋は百済寺に屋敷を与えられて藩士子弟に守られ(監視され)ながら余生を過ごすこととなる。直孝は藩主在任のまま没するが、その遺言には「彦根で騒動が起こり、直滋が加勢を申し出ても城に入れるな」「直滋が生活の救援を求めてきても応じるな」(共に筆者意訳)と伝えられている。そんな直滋自身は百済寺で直孝三回忌直前に亡くなっている。平成30年永源寺で直滋が子どもの頃に作成したと思われる赤備えの甲冑が発見されその名を耳にすることもあったが甲冑すら彦根城内に保管されなかった人物なのだ。しかし時報鐘の音色を聴く恩恵を受けることによって彦根城下は長い時間を経て直滋と音風景が繋がっていくのかもしれない。
【古楽】