山内さんの 愛おしいもの・コト・昔語り「伊吹・太平寺のそば」

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2020年1月15日更新

太平寺のそば打ちで行われたベニ鉢を温める方法の再現(伊吹山文化資料館提供)

 ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(92)和子さん(92)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。今回は「伊吹・太平寺のそば」。
 喜平さんは昭和50年代末から60年代にかけて、県内のそばを調査・研究していた。日本のそばの発祥地が伊吹山麓で、江戸時代には味の良いそばの産地として有名だったことを文献から知った。喜平さんの調査の一助になればと高島の普及所の職員から〝そばの花が咲いて伊吹山が白く見えると言われていた〟。地元の子守唄に〝伊吹山ほどそば欲しや、ももせがわほど醤油欲しや〟と唄われている。〝高島の人がうらやむほど伊吹では質の良いそばがたくさん収穫されていたこと〟など、情報がもたらされた。
 地元での聞き取りではそばの栽培についてほとんど成果を得ることができなかったが、やっと、元太平寺区長の三原直三さんに昔話を聞く機会を得た。当時、三原さんは80歳に手が届くくらいだったそうだ。
 太平寺は、伊吹山の西南斜面、標高450メートルほどのところにあった集落で、昭和38年に大阪セメント伊吹工場に土地を売り、13戸すべてが離村している。離村から20年以上が経過しての聞き取りだったが、明治20年ごろまで伊吹そばの直系と思われるそばが栽培されていたこと、少なく見積もっても20ヘクタール以上の畑があったこと、栽培から収穫の方法、昔ながらの手打ちが行われていたことなどを知ることができた。喜平さんは昭和62年に「伊吹そばに関する調査報告書」としてまとめ、平成29年発行の『伊吹山を知るやさしい山とひと学びの本』の中にも「日本そば発祥の地伊吹」と題して寄稿された。
 喜平さんは、聞き取り調査に加え、伊吹そばの原種を求めて、町役場を通してそばの種を持っている人がいないかを訪ね歩いたそうだ。大阪セメントの事務所に掛け合って敷地内に入り、旧太平寺集落を隈なく歩き回るなどするが、原種を見つけることはできなかった。
 喜平さんが三原さんに教わってよかったと思ったことに昔ながらのそば打ちの方法がある。その方法を簡単に書いておく。
 そばをこねる「こね鉢」は30センチほどの大きさの陶器製でベニ鉢と呼ばれている。かまどで、釜に水を入れ、ベニ鉢を蓋状において湯を沸かす。ベニ鉢が熱々状態になったら釜からおろして、そば粉(5合ほど)に熱湯(3合ほど)を入れ棒でかき混ぜる。ベトベト状態になったら、少しずつそば粉を加えこねる。滑らかにまとまり、表面につやが出るほどまでこねたら、のし板に広げ、厚さ2ミリくらいに延ばし、包丁で切りそろえ、湯がいていただく……。喜平さんはこね鉢を温め、熱湯を使うことに驚いたそうだ。熱を加えるとそば独特の香りが飛んでしまうそうで、そば打ちでは、粉を引くときから熱を加えないように扱うのが定石といわれているからだ。
 ある日、町役場の担当者から、工業団地竣工の祝いの席でそばを打ち、来客をもてなしたいと相談された喜平さんは、三原さんと三原さんのいとこのお二人が実際に太平寺流のそば打ちを披露する場を設けた。
「伊吹がそば発祥の地」であること、こんなそば打ちの方法があったと知ってもらいたい一念で、裏方として竣工祝いを支援されたという訳だ。
 結果は上々だったことに加え、その日のために三原さんは何度も練習を重ねられ
三原さんの息子さんのお嫁さんは「おじいさんが途端に若返ったようで、一生懸命に練習しています」と喜平さんに打ち明けるということもあった。喜平さんにはうれしい思い出になっている。
 三原さんは、離村後、太平寺で幼いころに食べたそばの風味に出合うことはなかったと言われたそうだが、太平寺では熱を加えてもなお残るほどに風味豊かなそばが栽培されていたのだろうと喜平さんは考えている。何事にも一所懸命に取り組まれることは知っているが、「なぜそんなにそばに詳しいのですか?」と尋ねると、「20代のころからそば打ちをしてたんやで」。そば打ちをされたきっかけなど、そばのお話はまた次回も。

光流

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