山内さんの 愛おしいもの・コト・昔語り「山の払い下げ運動」その1

廃仏毀釈と国有林

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2019年11月12日更新

己高山登山道にある標識:古橋には南谷、中ノ谷、北谷があり、仏供谷は中ノ谷にある小さな谷の名称。寺院との関係を感じさせる。

 ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(92)和子さん(92)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。今回は「山の払い下げ運動」。
 「この前は、水害の話をしたので次は山の話をしとこか。もう、知っている人もいやぁれんさかいな」と喜平さんは明治から大正時代にかけての山の話を始めた。田や畑など耕地が少ない古橋の人々にとって、山が生活の糧を得る大切な場であったこと、山への思い入れの深さなど折々に教わってきたが、今回は少し趣が異なる。
 「明治になって、神仏分離令が出たやろ。ほして廃仏毀釈運動がおこったやろ、なんでや?」と問われ、答えに窮した。「なろうたやろ?」「はい、でもなんでか……」「はぁー」と喜平さんがため息をつかれる。喜平さんのため息を聞くと、「もっと勉強しておくのだった」といつも悔やまれる。「一つには、寺が持っている領地を没収するという目的があったんや」。そんなことは多分初めて聞いたが、そもそも神仏分離令を〝なんで?〟と考えたこともなかった。
 喜平さんの話はこうだ。江戸時代もその前も、ずっと山は時の権力者が寺に寺領として与え、周辺の村人が利活用するとともに、寺が権力者の末端の役所のように民衆の支配も行ってきた。明治政府は、神仏分離令によって寺の支配権と財産を奪おうとした。しかし、山が国有林として没収されると、村人は山からの糧を得ることができなくなってしまう。古橋では、住民の暮らしの維持と、寺院(鶏足寺)の維持管理のために国に対して払い下げを願い出た。払い下げの一切を任せた弁護士が別の仕事で不正を行ったこともあってか、いつまでたっても認められず、ついには国に対して訴訟をおこした。訴訟の費用は膨大で、住民はこれ以上訴訟を続けるのは無理と裁判の打ち切りを決めるが、4人の役員は「今まで使った多くの金を無駄にするのはもったいない」と主張。住民は「この一件の一切を4人の役員に委任する」と決めた。4人の役員は私財を投じて裁判を続行し、やっと大正4年(1915)、鶏足寺領と古橋領に加え、物部山、保延寺山も払い下げられた。途中で払い下げを断念した法華寺と石道寺の寺領は現在も国有林となっているそうだ。
 今まで何気なく聞いていた「国有林」という言葉にそんな歴史があったことを知るとともに、払い下げがどのくらい行われたのかも気になり喜平さんに尋ねると「払い下げてもらわはったとこの方が多いけど、しゃはれんかったとこも仰山ある」。
 喜平さんは「払い下げの動きがいつ始まったのかは聞いていませんが、大正4年までかかり、明治29年には水害もあったので、この時期の古橋は経済的に困窮していたに違いない」と話す。払い下げが決まったのち、私財を投じた役員4人に対して、山の一部である仏供谷(ムクダニ)一谷をお礼として与えるという書付が作られる。「役員の一人が祖父の喜六で、書付も残っています」と喜平さん。
 この話は次回も続く……。

 

光流

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