湖東・湖北 ふることふみ 59
野良田の戦い(前編)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2019年8月16日更新

 前回まで肥田城水攻めを紹介し、肥田城主高野瀬秀隆が城に籠って六角義賢の攻撃から城を守りきったと紹介した。
 しかし、この一度きりの戦いで六角氏の勢力が損なわれたわけではなく、翌永禄3年(1560)に義賢は再び総力を結集して北上を始めた。水攻め時に雨による堤防決壊での撤退を反省したのか梅雨が終わり、台風が襲ってくる前の雨が少ない八月を選んでいる。
 今回も城に籠る高野瀬軍だったが、早々と小谷城に援軍要請を行っており、小谷城主浅井賢政も自ら軍勢を率いて肥田城救援に駆け付けた。これにより宇曽川を挟んで六角軍と浅井軍が直接対決を行う様相を示したのである。両軍の兵力には諸説あるが2万5千以上ともされる六角軍に対し、浅井軍は1万に満たなかったといわれている。この数字には誇張が見えるがそれでも数の上では浅井軍が圧倒的に不利であったことは間違いない。そして賢政はこの戦いが初陣であり武将としての器量について誰もはかれなかったのであった。
 少し話が逸れるが、古代中国の漢楚戦争(項羽と劉邦の戦い)に『背水の陣』という物がある。名将と称される韓信が行った起死回生の策で、それまでの兵法を無視して川を背に布陣することで軍は前にしか進むことができず兵は決死の戦いで通常以上の力を発揮する策である。日本では南北朝時代に用いられたことで『太平記』に記され戦国武将の教養の中に組み込まれていた。
 永禄三年の出陣に際し六角軍は愛知川を背負う形で背水の陣を敷いた。川にはもう一つの用兵の常識がある。敵の目前で先に川を渡った方は身動きが取れないままに攻撃を受けて不利になるというものである。このため川を挟んだ戦いでは膠着状態に陥りやすい。そして平地の戦いでは兵力差がそのまま結果に結びつく可能性が大きい。
 大将が初陣であること、圧倒的な兵力差、六角軍の兵法。このすべてが確実に六角軍の勝利を示唆していた。それでも賢政は宇曽川にまで兵を進め、川を挟んで両軍が睨み合って陣を構えたのであった。
 後に「野良田の戦い」や「宇曽川の戦い」と呼ばれる六角義賢と浅井賢政の直接対決が行なわれた正確な日付は伝わっていないが八月であったとの時期を考えるならば、六角軍は愛知川を背にしているとはいえども水量は比較的少なく簡単に渡ることができるため背水の陣のような前にしか進めないという覚悟は兵たちに生まれない。そもそも中国のような船でしか渡れない(琵琶湖よりも幅が広い)大河を背にするからこその策だった。六角軍はこの時点で大将が求めるほどの覚悟を兵が持っていなかったことになる。そして兵力差と敵大将の未熟さに油断したのかもしれない。
 一方の浅井軍は、どの状況から見ても勝てる要素がないために全軍決死の覚悟を持ち士気が上がっていた。これが歴史の大逆転を生むのである。

編集部

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