湖東・湖北 ふることふみ 56
肥田城水攻め(前編)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2019年5月10日更新

肥田城跡の碑

 六角氏と京極氏の境目の城として時には攻撃を受けながらも、高野瀬氏は肥田城で着実に基盤を築いてゆく。そして宇曽川の水運を利用した発展を遂げ肥田城周辺には城下町も形成されていた。
 戦国時代、北近江の京極氏は浅井亮政に実権を奪われ保護下に入る。亮政の子久政は六角義賢に従うことで北近江の安定を図り息子に六角氏重臣平井定武の娘を迎えさせて義賢から名を貰い「賢政」と名乗らせるほどだった。しかし賢政はそんな父親のやり方に反発して妻を平井家に追い返し六角氏からの独立を宣言する。義賢は都での覇権を巡って摂津国(大阪府北中部)の三好長慶とドロ沼の戦いを繰り返している最中であり、賢政に怒りながらもすぐに北近江に出兵することができなかった。その隙をついて賢政は六角氏との境目を治める国人たちを調略した。
 永禄2年(1559)肥田城主高野瀬秀隆は目加田氏や八田氏と共にまだ初陣も済ませていない浅井賢政を支持して六角氏から離れることを宣言し肥田城に立て籠もった。
 肥田城は美濃国主斎藤義龍に賞賛されたこともある城であり、平城でありながら堅固な軍事施設であったことは間違いない。しかしあくまで国人の居館を兼ねた城でありどれほど多く見積もっても兵が千人も居たとは思えないが、そんな肥田城に対して六角義賢自身が嫡男義治(義弼)と共に1万5千の兵で出陣し肥田城を囲んだと言われている。当主親子が総力を引連れて出陣したとなると肥田城や周辺の国人たちの城を落とすためだけとは考えられず一気に小谷城まで攻め浅井賢政を降伏させる作戦であり北近江の不安定さを早く収めて都に向かうための総力戦だったと推測される。そうならば小城である肥田城など大軍で一斉に攻めれば簡単に落ちたに違いない。そもそも斎藤義龍が称賛した堅固さは宇曽川を利用した北からの攻撃に対する防御であり六角氏のように南から攻める場合には肥田城の堅固さにも疑問符を付けざるを得ない。しかし六角軍はここで予想外の城攻めを始める。
 「肥田城水攻め」と後の世に伝えられる城攻めを発案した人物が誰であるのかは記録に残っていないが、六角義賢はその策を採用し実行させたのが現在の定説である。
 永禄2年4月3日、観音寺城を出た六角軍は肥田城の近くに布陣し肥田城を囲む形で幅12間(約23メートル)長さ58町(約6.3キロメートル)の堤防を築き、宇曽川と愛知川(現在よりも北を流れていた)の水を引き込んで水攻めとした。彦根藩士源義陳が寛政4年(1792)に編纂した『近江小間攫』には「本朝(日本)水攻ノ最初ハ此時ナリ」と記している。実際には七六年前に河内国(大阪府東部)若江城で畠山義就が行った若江城水攻めが日本最初の水攻めであるが、しっかりとした堤防を築いた水攻めとしては肥田城が最初であり、羽柴秀吉の備中高松城水攻めより23年前の出来事だったのだ。
 そして今年(2019)は、肥田城水攻めから460年になる。 

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