佐和山城址、石田三成公御腰掛け
佐和山城最後の城主は誰か? 石田三成と答えたいところだが、井伊直政である。関ヶ原合戦の後、慶長6年(1601)1月、井伊直政は徳川家康より佐和山城を賜り、3月には佐和山城に入った。翌年2月1日、合戦で受けた鉄砲傷が悪化し、佐和山城中で死去する。その後、井伊家は彦根城を築城し、佐和山城はその役目を終え、人々は永劫、石田三成の城として記憶することになった。
平成30年(2018)12月、三成の戦実行委員会がウェブサイトを立ち上げた。こんなことが書かれている。
『先日、関ヶ原合戦以降、現在絶賛逃亡中の殿とミーティングを行いまして、この度「三成の戦」のサイトを立ち上げることとなりました』。
『三成の戦とは「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」と謳われた名城・佐和山城跡を有する彦根市で、我が殿「石田治部少輔三成」をお慕いする有志により、続けられてきた。まぁ、いわば殿の顕彰活動を行う団体です』。
『彦根市に存在する殿ゆかりの地の整備活動、そして殿の大河ドラマ化実現へ向けた広報活動を私たちと一緒に活動してくれるサポーターを募集しています。石田三成を愛するあなたの力が必要です!!殿のために、私たちと一緒に彦根市から盛り上げていきませんか?』。
そして今年3月9日・10日の両日、「本丸跡御腰掛修復ならびに三成公茶の井御竹林整備」イベントが行われた。
本丸跡御腰掛修復は、積年の風雨による劣化と2018年の大型台風でいたんだ腰掛けを撤去し、新しい腰掛けを設置しようというものだ。
三成公茶の井御竹林整備は2010年から有志によって続けられている竹薮整備の手伝いをしようと計画された。この竹藪のなかには、三成が茶の湯につかう水を汲んだと伝わる井戸がある。
勿論、僕は両日とも参加した。サポーターは総勢28名、東京、埼玉、名古屋からは一泊二日での参加があった。
9日、空は治部少晴れ、空気も澄んでいた。多賀町産のヒノキ材を使った腰掛けは重さ約60キロ(製作:株式会社ひらつか建築)。7台の腰掛けを標高232.5メートルの頂上まで人力で担いで登る。普段は頂上まで片道20分の行程が力と気持ちを合わせ90分。運び上げることができたのは2往復で5台。山城築城の苦労を身をもって味わうことができた。山頂からの眺めは最高だった。最初から計画されていたのかどうかはわからないが、2台は清凉寺境内に設置することになった。
10日の竹薮整備は生憎の雨模様。それでも作業が進められ、400年の時を超えても醒めぬ三成への思いの強さを感じた。
ところで、『井伊家十四代と直虎』(彦根商工会議所編 2017)に中井均教授が次のように書いている。
「井伊家にとって佐和山城がいかに大切な賜物であったのかを端的に物語っているのが直政の墓所である。墓は佐和山山麓に開かれた清凉寺に造営される。以後、清凉寺は彦根在城時代に没した藩主の墓所となる。直政は家康より賜った佐和山城の城主であり、墓はその佐和山麓に求めたものと考えられる。こうした藩祖の思いから、彦根で没した藩主は清凉寺で葬られることとなる」。
今回は、三成公御腰掛けであったが、佐和山に登りこの腰掛けに座る人の思いによって、直政公御腰掛けでも、信長公御腰掛けであってもいいわけだ。
春、桜の頃、もう一度登ってみたいと思っている。さぞ絶景に違いない。
【雲行】