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近江の民謡1
鈴鹿馬子唄

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 東近江市 2019年2月28日更新

〜坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 アリャ 雨が降る〜

 滋賀県は古くから交通の要衝だった。南北を結ぶ道、東西に伸びる道。琵琶湖を囲むように発達した道は、北国街道や中山道、東海道として整えられ、今もその名残を見ることができる。
〝馬子〟とは、人や荷物を馬の背に乗せて運ぶ人の事である。
 鈴鹿山脈の南端で滋賀県と三重県を結んでいたのが東海道で、そこを行き来するには鈴鹿峠を越える必要があった。鈴鹿峠は標高357メートル、天候は曇りがちで道が険しい難所だ。
 馬子達はここで、峠を登り下りする旅人や彼らの荷物を運んで駄賃を稼いだ。当時は農家の副業だったそうである。「ハーイハーイ」と馬をあやしながら、一歩一歩山道を踏み分けて先を急いだ。唄前半の「坂」は、三重県「坂之下宿」とも当時日本経済の中心であった「大坂」ともいわれる。いずれにせよ、坂を照らす事で、鈴鹿や土山の天気がぐずついている事がよく伝わってくる。
「馬子唄は泥臭く、さも自分が馬を引いているようなリズムと歯切れの良さを持って唄いなさい」と師匠には教わった。鬱蒼とした山道を想像し、歩きながら唄ってみるがなかなか思うようには表現できないものだ……。
 さて、唄の文句〝あいの土山〟の〝あいの〟とは何か。
 諸説あるが、私は〝間の(あいの)〟であり、それに伴い「坂」は「大坂」だと推測する。
 それは地理的な理由からである。唄の文句を前述のように捉えるならば登場する3つの地は東から、鈴鹿山脈、土山、大坂という順に位置する。つまり、土山は鈴鹿と大坂の「間(あい)」なのである。東海道の果て・京都の先にある当時の大坂は、商人の活気に満ち溢れていた。雨に晒されながらまさに鈴鹿峠を越えようとしている馬子達にとっては、一層晴れやかなまちに想像されてこの文句が生まれたのだと思う。
 この鈴鹿馬子唄。現在は、地元・土山小学校の児童や、全国の民謡愛好者に唄い継がれている。毎年6月には土山市で〝鈴鹿馬子唄全国大会〟も開催され、のど自慢が全国各地から足を運ぶ。
 その大会に向かった時、土山から見る鈴鹿山脈は鬱蒼としており、険しい難所と格闘する馬子達と師匠の言葉が頭に浮かんだ。

塚田陵子

塚田陵子

滋賀県、長浜市(旧びわ町)出身。京都外国語大学卒業。11歳で武田雅楽倫師に箏・三弦を習い、その後山口晃久師に出会い民謡・三味線・鳴り物を学ぶ。 先祖の生活から生まれた民謡を歌い継ぐべく日々活動中。

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

編集部

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