湖東・湖北 ふることふみ 52
明治維新の彦根藩

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2019年1月8日更新

桑名城開城時に焼かれた辰巳櫓址

 第二次長州征伐は彦根藩にとって大敗を喫する戦だったが幕府にとっても将軍徳川家茂の死で停戦せざるを得なくなる汚点となった。歴史は大きく動き1年後には大政奉還が行われるが、その間に彦根藩も大きく動いた。
 まずは井伊直弼存命中には、直弼との意見の違いから江戸藩邸で軟禁状態に置かれていた勤皇派の岡本半介(後の黄石)が藩政を握る。そして一気に軍制改革を進め井伊の赤備えは消滅した。半介は藩医の谷鉄臣を重く用いて藩政改革を進めて行くが、同じ勤皇派でも半介が徳川慶喜の意向に沿った勤皇を主張するのに対し、鉄臣は岩倉具視らが考える倒幕を支持するようになり岡本と谷はすれ違うようになる。
 これは幕末から維新にかけて各地で起こった対立と同じ構図ではあるが、彦根藩では粛清ではなく話し合いによって谷が率いる下級藩士のグループ「至誠組」が中心となるようになった。王政復古の大号令ののち、彦根藩の藩論が勤皇でまとまったことを知った岩倉具視が大久保利通に報せ、大久保はすぐに鹿児島に伝えていて、その政治的影響の強さを物語っている。
 慶応4年1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いでは彦根藩は新政府の命で大津警護の任に就いた。直前まで徳川軍の中核を担っていた井伊家を新政府が完全に信用できずに用心して主戦場から遠ざけたとも考えられるが新政府軍の勝利に貢献したことは間違いなく、そのまま桑名まで兵を進め桑名城開城に立ち会っている。
 同じ時期、金剛輪寺では相楽総三らが赤報隊を結成する。のちに偽官軍と呼ばれて処刑される運命にある赤報隊も結成時は官軍として遇されていたため彦根藩でも領内通行を許可しており、赤報隊が偽官軍と呼ばれ処刑される原因となる年貢半減の高札が最初に掲げられたのは中山道高宮宿となる。
 鳥羽伏見の戦い以降、彦根藩の活躍は目覚ましい。この頃江戸で作られた瓦版には明治天皇を奉じて新政府軍となった大名に薩摩・長州・土佐に続いて彦根と阿波(蜂須賀家)が記されている。のちに薩長土肥と呼ばれる肥前(鍋島家)よりも早くに新政府に味方した大名として井伊家が認識されていたのだ。戊辰戦争での彦根藩は関東から東北まで転戦し、流山では新撰組局長近藤勇を捕え、会津戦争では板垣退助隊で戦った。また分家である与板藩(井伊直勝系)も周囲を敵に囲まれながら北越戦争を戦い抜いた。
 彦根では「直弼が嫌われていたため明治維新後の旧彦根藩士は冷遇された」と言われる事が多いが、大久保利通や大隈重信との繋がりが強く、大久保の尽力で日下部鳴鶴が明治天皇の前で書を書き、大隈によって彦根城取壊しが中止される。
 また西村捨三や大東義徹・石黒務など現在にも功績が残っている政治家も排出しているのだ。明治維新から150年が過ぎた今だからこそ、桜田門外以降の彦根藩を見直せるチャンスなのかもしれない。

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