山内さんの  愛おしいもの・コト・昔語り 『茶葉つぼ』

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 木之本町 2018年11月20日更新

茶ツツミ(白い方が和子さん、赤い方がお嫁さんの茶ツツミ)

 ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(91)和子さん(91)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。「愛おしいもの・コト・昔語り」は、私が聞いた中でもこれはと思った、或いは伝えておきたい山内さんの記憶である。今回は「茶葉つぼ」。
 私が古橋の古い風習を面白がるので、和子さんが「これ見て」と金襴でできた巾着袋を出して下さった。「新茶ができるとこれに茶葉を入れ、実家へ届ける習わしがありましたんや。」と喜平さん。その風習を〝茶葉つぼ〟、袋は〝茶ツツミ〟と呼び、春、田植えや種まき、茶摘みと忙しい時期を過ごした嫁を実家に返し、ゆっくり親の顔をみて休んでおいでという意味が込められていたと続けた。茶葉つぼは古橋だけの風習ではないというが、私は初めて聞いた。
 「これは底が六角形やろ、お寺におぶく米を持っていくときの袋の底は四角形で、似てるけど違うの」と和子さん。
 嫁ぐ前、和子さんはそんな風習を知らなかったそうだが、「古橋に嫁ぐのだからと母が持たせてくれた」そうだ。喜平さんちには、ご長男のお嫁さんが持ってこられた袋もあり、どちらも娘を思う母親の思いがこもった美しい袋だ。
 古橋は茶所とも言われる。「味の事はわからん」と言う喜平さんだが、「どんな植物も寒暖の差が大きいところで育った方が味は良くなる。蓄えた養分は暑いと浪費されるのに対し、寒いと蓄えようとするさかいな」と、いつものように解説して下さる。そして中国から茶の実を持ち帰った最澄は、比叡山の麓の坂本に茶の実をまいたと伝わるが、古橋にもその実はまかれたと喜平さんは話す。古橋の己高山は、奈良時代に開基され、山岳宗教の聖地として栄えたがやがて衰退、平安時代に再興したのは最澄だ。「当時の茶は薬用で、体の不調を整えるため人々に与えていたと思う。山には自生の茶の木がたくさんあった」と。
 戦後、古橋では地域振興策として茶畑を整備し、茶を特産品として売り出そうということになった。提案したのは喜平さんで、昭和23年のことだそうだ。昭和27年、県の農業改良普及員になった喜平さんは、茶畑の整備と品質向上に取り組み、製茶工場も建てた。工場が建つと、お父様は自宅での製茶用に使っていた炉を割ったそうで、息子の仕事に協力する気持ちの表れだったと、懐かしそうに話された。
 昭和60年ごろ、喜平さんはその炉を自作し、お父様が作っておられた手もみ茶を自宅用に作るようになった。1年分の茶を作るのに茶葉はだいたい30㎏ほど必要で、製茶すると8㎏から10㎏くらいになる。
 古橋では、昨年あたりからまた茶畑の整備が行われるようになり、茶畑には「こだかみ茶」と書かれたのぼりが立っている。

光流

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