湖東・湖北 ふることふみ 50
天狗党の乱

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2018年11月16日更新

天狗党の墓所(敦賀市)

 禁門の変が起こっている頃、江戸の近く水戸藩では長州藩の挙兵に匹敵するくらいの混乱が起こっていた。天狗党の乱である。
 水戸藩は光圀が勤皇の意志を示して以来、家臣たちは佐幕派と勤皇派に分かれ、血で血を洗う政権争いが行われていた。幕末になり諸生党(佐幕・門閥派)と天狗党(勤皇)に分裂し、天狗党も過激派と静寂派があり、三者はそれぞれを否定していた。この中で天狗党過激派が起こした事件が桜田門外の変や坂下門外の変であり、関東で起こった早い段階での過激事件のほとんどは天狗党によって引き起こされる。水戸藩出身の一橋慶喜に従って上洛した藤田小四郎は、尊王攘夷の先駆けである藤田東湖の息子であり、京で長州藩士らと意気投合し協力を約束した。水戸に戻った小四郎は、水戸町奉行田丸稲之衛門を大将に筑波山で挙兵した。当初は簡単に鎮圧されると考えられていた兵乱は予想以上の勢力となり水戸藩で武力衝突に発展したが、この戦いも天狗党の連戦連勝となる。ただし軍勢が大きくなると志を持たない者も増え、別動隊が横暴を重ねたため諸生党に大義名分を与え幕府に救援を求めた。若年寄田沼意尊(意次の子孫)が水戸に入り、激しい内戦のなかで尊王派家老武田耕雲斎は失脚し天狗党首領に担ぎ上げられた。耕雲斎は諸生党の横暴を一橋慶喜に直訴して日本を尊王攘夷に導くとの目標を定めて中山道を西に向かうように決めたのだった。禁門の変から3か月半後、季節は11月になり秋から冬へと変わろうとする時期だった。中山道を約千人で西進した天狗党は余計な戦闘を回避するため間道を通るが、それでも和田山では高崎藩などと戦争になり勝利している。しかし京では慶喜が天狗党討伐の大将になり、大垣・彦根・桑名三藩が美濃で厚い陣を敷いた。彦根藩は木俣・新野隊を中心に関ケ原辺りに布陣する。260年以上の時を経て、再び関ケ原に井伊の赤備えが立ったのである。しかし天狗党は冬に蝿帽子峠を越えて越前に入り加賀藩に降伏した。近江塩津に本陣を置いていた一橋慶喜は処分を田沼に任せる。田沼は福井・小浜・彦根藩に監視させたうえで16棟の鰊蔵に監禁したが座る隙間もないほどに詰め込まれ蔵の窓は塞がれ食事は少なく暖もとれない環境であったとされている。そして簡単な取調べののちに武田・藤田・田丸ら352人が4日に分けて斬首されるという日本刑罰史上においても類をみない(安政の大獄よりも激しい)地獄絵図が展開されたのだった。
 この処刑に関して他の二藩が躊躇している中で彦根藩のみが直弼の仇討ちと張り切っていたとされていて現在では批判の対象にもなっているが、『第貮號』(水戸天狗党一件日記)には処刑が決まり三藩に斬人を出すように命じても「諸士之内斬人望無之哉」と斬る役を希望した者がいなかったと記していて、彦根藩は私怨ではなく公務として処刑を執行しただけであったのだ。

古楽

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