山内さんの愛おしいもの・コト・昔語り 『スイカ』
ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(91)和子さん(90)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。「愛おしいもの・コト・昔語り」は、私が聞いた中でもこれはと思った、或いは伝えておきたい山内さんの記憶である。今回は「スイカ」。
喜平さんは農業改良普及員をされていたが、昭和43年ごろ、担当する高月周辺では稲の転作作物として大々的に「スイカ」栽培に取り組むことになった。これ以前、井ノ口という集落を中心にスイカ栽培は熱心に行われていて、赴任前の喜平さんは前任者から「スイカの事は口をだしたらあかんで」と言われたそうだ。一過言持つ農家さんたちばかりという意味だ。喜平さんの元へ「なかなか芽が出ない」と相談に来た人はただ一人だったが、とっておきの方法を伝授し、その人の成功が評判になり信用を得た喜平さんは、次々と新しい方法に取り組み、昭和47年には集団転作の成功例として「高月町スイカ生産組合」は農林水産省の全国表彰を受けるまでになったそうだ。
「家で試したことばかりで、うまくいくことはわかっていました」と喜平さんは懐かしそうに話し始めた。事の始まりは10歳ごろ。「家の畑にスイカの種をまいたところ、芽が出ない場所があり、他の場所から植え替えたら枯れてしまったんです。隣の畑のおじいさんが『ぼん、スイカは植え替えたら枯れる』と教えてくれて、ウリやキュウリはどうもないのに何でスイカはアカンのか不思議で……」。
長じた喜平さんは、植え替えにより3本ほどしか出ない根が切れてしまうことが枯れる原因と考えた。キュウリは根が切れてもまたそこから新しい根が伸びるのに対して、スイカは新たな根が出ないのだとか。喜平さんは割木用の丸太を型にして藁を籠状に編み、土を入れて種を捲き、発芽後そのまま畑に植える方法を考え出していた。スイカ農家の人たちに、共同育苗をすすめると「スイカは植え替えはできん」と言われる。しかし、「できる」と喜平さん。藁籠をたくさん編むのは大変で、次に考えたのは竹だったがこれも同じ太さを揃えるのは無理だった。第3弾として木材を薄くそいだ枌をビール瓶に捲きつけ新聞を最後に一捲きする〝枌(へぎ)ポット〟を考案。生産組合では3万個の枌ポットを作り、「家の八畳間がいっぱいになった」と喜平さん。もちろん共同育苗は成功し、品質の揃ったスイカが栽培され、全国表彰を受けるほどの特産品になるのだが、その数年後、現在よく目にするポリ製の育苗ポットができたそうだ。和子さんは「あの黒いポットを見ると、お父さんが先駆者やったと思います」と、労をねぎらうように話した。
ところで、農家さんに教えた発芽を成功させるとっておきの方法は、水につけた種をタオルなどでくるみ、さらに油紙で包んで腹巻の要領でお腹に捲いておくというもの。喜平さんは「種を破って芽がでる〝催芽(さいが)〟には温度が必要で、スイカは36度くらい。体温と同じやろ」。お腹で種を温めた農家さんの発芽率は高く、「おかげで腹の具合が悪うなった」と笑い話と共に評判になり、以降、多くの農家さんが喜平さんの指導を受け入れるようになったのだとか。集団育苗では育苗床に電熱線を通し、種を温めることも実施したが、これも自宅で試していたそうだ。
喜平さんの研究熱心さと思い立ったらすぐに実行、経過を慎重に観察する姿勢や記憶力にはいつも驚かされる。
6月、「七夕に播くさかい〝七夕豆〟や」と喜平さんから豆の種をいただいた。
七夕の日に畑に播いたが、気が付くと本葉が伸び、いつの間にか蔓が伸びている。植物を観察するのは大変だと実感する今年の夏。喜平さんをより偉大に感じている。
【光流】