山内さんの愛おしいもの・コト・昔語り 『古橋のバイ(栢)』 其の一

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2018年7月10日更新

5月末、古橋の山中で見つけたバイ

 ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(91)和子さん(90)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。「愛おしいもの・コト・昔語り」は、私が聞いた中でも心に残った、或いは伝えておきたい山内さんの記憶である。今回は「バイ」。

 初めて山内さんちを訪ねたとき、お茶うけにアーモンド大の木の実を頂いた。過去にも、古橋に住む友人から勧められたことがあり「バイ」と教えてもらった。少し硬い皮をむいて食するが、友人は「古橋のピスタチオや、うまいで」と言った。何かに例えるならば確かにピスタチオが近いと思う。他所では見たことがないので、古橋独特の食文化なのかと思っていたが、喜平さんが記した小冊子『古橋のバイ(栢)』を読んで目からうろこが落ちた。
 喜平さんが「バイ文化」と呼ぶほど古橋には濃密なバイとのかかわりがあったのだ。
 バイは「イチイ科・カヤ属カヤ」の変種「チャボガヤ」ではないかと考えられるが、植物学的に正確な名称は知らないと記してある。カヤが直上して成長するのに対して、バイは地面を這うように成長するそうだ。もともと古橋周辺の山に自生していたのか栽培されたのかは不明だが、日当たりのよい斜面に多くみられ、実の採取の歴史は江戸時代以前ではないかと考えている。喜平さんは「バイは古橋にとって大切な植物だったが、現在は忘れ去られようとしている。残念で仕方がないので冊子にした」と言われた。冊子にはバイの生態から始まり、バイ山の手入れ、収穫方法とその後の処理方法、かつてあった※割山(わりやま)制度などが事細かに書かれていて、山から生活の糧を得ていた先人の暮らしぶりと、自然をおろそかにせず、その土地で一生懸命に生きていた人たちの歴史が詰まっているように思えた。

食用にするため乾燥中のカヤの実。喜平さん曰く「見た目は同じでも、バイの方が濃厚でうまい」

 話が前後したが、古橋にとって大切だったのは、バイが貴重な現金収入をもたらしたからだ。
 バイは収穫時期と処理方法によって、油を搾る「油バイ」と食用にする「カヤバイ」に区別される。昭和初期まで、油バイは京都などから業者が買い付けにきていたそうだ。5斗で1俵とし、豊作の年には4百〜5百俵にもなったのだとか。喜平さんは「京都の有名料亭の名物料理の天ぷらは、古橋のバイ油で揚げられていた」と誇らしげに話された。バイよりも安価な大豆油にとってかわられたのが昭和10年ごろで、おそらく古橋で業者による入札が行われた最後は昭和8年ではなかったかと言う。その年、喜平さんの父・喜四郎さんは、「バイ世話」と呼ぶ役職に就いていて、業者が6人ほど集まった入札の場に喜平さんもついて行った。入札後、喜四郎さんは集落の人に「談合したようで高こう売れんかった。すまんことやった」と詫びるのを聞いたという。7歳の喜平さんは「談合」の意味が分からなかったが、詫びる喜四郎さんの姿が印象に残った。「成人して村役場に勤めたときに談合の意味が分かり、合点がいきました」。後年、「油バイが売れなくなったことは古橋にとって大きな痛手だった」と、古老から教わったそうだ。
 ところで、喜平さんがもてなしてくれた実は、バイではなくカヤの実だった。昭和48年、仕事で出かけた日野町でカヤの大木を見つけ、実を拾って帰り翌年畑に捲いた。13年後に初めて実がなり、「カヤバイ」を作る方法で処理している。
 その方法など、バイの話はまた次回も……。


※割山制度 山割りとも山分けともいう。一定林野の木草を共同的に採取する入会山(いりあいやま)を有権者個々に区分または分割すること。

光流

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