山内さんの 愛おしいもの・コト・昔語り 4
ご縁があって、長浜市木之本町古橋にお住まいの山内喜平さん(90)和子さん(90)ご夫妻にお会いしてお話を聞き色々教わっている。ふと耳にする山内さんのお話が面白い。「愛おしいもの・コト・昔語り」は、私が聞いた中でもこれはと思った、或いは伝えておきたい山内さんの記憶である。今回は「石田三成」。
DADA4月号に彦根市在住の作家・矢的竜さんが「三成最後の賭け」を出版されたお話が掲載され、それに誘発された形でお話は始まった。
「オトチの洞窟な、今は入り口になっているところは煙抜きの穴や。ほんまの入り口は崩れてしまったけれど、昭和22年には谷側にあった。 その頃は、山仕事をする人が小屋替りにつこーてやーたな」。昭和22年、喜平さんは山仕事をしていた時に教えられて始めて洞窟へ行ったそうだ。
洞窟の入り口へは急斜面を降りて行き、入り口の前は「コバ」と呼ばれる平坦地だった。左右に岩があり洞窟の中を見通すことはできなかった。洞窟の中でたき火をして茶を沸かした。火も上手く燃えた。現在の入り口になっている穴があり「煙抜きの穴やな」と喜平さんは思ったと言う。
喜平さんが次に洞窟を訪ねたのは昭和63年、集落内の文化財や遺跡を保存する活動をしていた時で、「仲間と3人で山に行ったがなかなか見つからず、入り口は埋まっていました。なんでやろな」、埋まった理由は今も分からない。
喜平さんは関ヶ原の敗戦から落ち延びた三成の話もいくつか聞いておられる。古橋と三成の関係でよく知られているのは、三成の母の里が古橋だったこと。さらに、佐吉と呼ばれた幼少期の三成が修行のため預けられた寺が古橋にあった大寺院・法華寺(726年創建)だったという説がある。
喜平さんは、「三成捕縛の追手はいち早く法華寺を訪れ、寺では三成をかくまえず、一旦、村人の家のつし(中2階の物置のようなところ)でかくまい、そこも危うくなりオトチの洞窟へ連れて行ったと聞いています。三成は古橋に迷惑をかけられないと井口(長浜市高月町井口)に居た徳川方の田中吉政に捕らえられます。本来なら古橋は焼討ちにあっていてもおかしくはないのですが、一切、咎はなかったと聞いています」。
関ヶ原の合戦は1600年。古橋では400年以上も三成が語り継がれていて、喜平さんが話してくださると、合戦時の村人たちの思いが様々に想像され、三成の最期を思えば切ない。
「三成はかくまってくれた家に小柄を残したと言われていて、山仕事をしているときに『これが三成の小柄や』と持っている人がいたな」と思い出して下さった。
こんな話もある。昭和9年、小学校1年の時の事だ。「近くで将校演習があったとかで立派な馬に乗った将校さんが古橋に来て、区長さんに法華寺への案内を頼まれた。区長さんは用事があり、父に代わりを頼まれたが体調が悪く臥せっていたのでお断りすると、地図があると一人で行かれることになりました」。子どもらは知った道の事、先導するように10人ほどでついて行った。将校は石段の前で馬を降り、20基ほどの供養塔を一つ一つ丁寧に調べ、「これだ」と言いながら鞄から鉛筆と紙を取り出し、拓本を取る要領で供養塔に刻まれた文字を写し取り、大事そうにまた鞄に納めた。帰り道、将校は再び区長の家に立ち寄ったそうだ。おそらく「三成の母の供養塔なので、大事にするようにと言われたのだと思います」と喜平さん。間もなく供養塔は与志漏神社の境内に移されたそうだ。
古橋区が発行している観光パンフレットには供養塔について、「三成の母、瑞岳院の墓と伝えられ(中略)基礎に『石田隠岐守内方』『為宗珠大禅尼』『文禄三年九月三日』(1594年)と刻まれ…」と書かれている。
「当時の田舎の子どもが初めて将校さんを見たときの感動は想像できんやろ?」と喜平さんは問いかけたが、いつものように喜平さんの記憶力に驚かされるばかりだ。
【光流】