湖東・湖北 ふることふみ 44
桜田門外の変(中編)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2018年5月14日更新

萬延元年に発刊された『袖玉武鑑』(携帯できる武鑑)/ 個人蔵

 江戸城からの太鼓を合図に、大名たちの登城が始まった。
 ドラマや映画を見ると行列はゆっくり歩みながら進むイメージがあるが、実際の行列は駆け足だったと伝えられている。江戸時代は基本的に平和な長期安定政権だったが本来幕府という組織は武士が軍事行動中に戦地で作る暫定政権でしかない。このため、常に有事を意識した政治が行われているという建前がある。普段ゆっくり登城する行列がいきなり走り出したならば幕府にとっての一大事を民衆に報せる行動になる。これを避けるため幕閣の登城は日常的に駆け足であることが求められていたのだ。
 彦根藩邸の門が開き、定法通り駆け足で行列が出てくる。それを眺めるのは襲撃者だけではなく多くの民衆だった。大名行列は江戸の風物詩であり地方から来た人々の見物も多かった。そのためのガイドブックである『武鑑』という本も多種多様に販売されていたくらいだったが、襲撃者たちもこの武鑑を見てまるで行列を見学している者のようにカモフラージュしていた。もしかしたら武鑑で彦根藩の行列であることを最終確認していたのかもしれない。
 そこに彦根藩の行列がやってきた。走って進む行列を止めるには前に出るしかない。訴状を持った者が行列の前に進み出る。登城する閣僚に訴状を出す駕籠訴は原則として身分を越えた政治への口出しと考えられ、訴えた者はその場で捕縛され処刑されることが決まっていた。だからこそ命がけの訴えは武士の好むものであり礼儀として駕籠訴は一旦受理しなければならない不文律があった。行列の前に訴状を持って飛び出した者が居れば、一瞬でも行列は停止する。その瞬間に訴人に扮した森五六郎が刀を抜いて先頭の彦根藩士日下部三郎衛門に斬りかかった。油断しているとはいえ彦根藩の行列で先頭を任される武士である、雪の為の合羽と柄袋が無ければすぐに対応できたかもしれなかったのは事実であり季節外れの雪は襲撃側に大きな利益を与えた。急に行列が停まり先頭で騒ぎが起こったことで駕籠の周囲に居た藩士たちは現状確認のため前方に移動したために駕籠の警備が一瞬手薄になり、ここにピストルの音が響いたのだった。銃弾は駕籠の中に座る直弼の腰を撃ち抜きこの時点で直弼は動くことができなくなったのではないかとされている。そして襲撃者が周囲から襲ってきたことで彦根藩士たちは混乱した。井沢元彦さんは『逆説の日本史』(小学館文庫)で彦根藩の行列に日雇い仲間もたくさんいた事を指摘し、彼らが最初に逃げたのではないかと考えられている。俗に18人の襲撃者を60人近く居た藩士が防げなかったことが彦根藩士の堕落と言われるが、本来の藩士は20人居たか居ないかだったようだ。そして味方から逃亡者が出た戦闘集団の士気は異常なくらいガタ落ちになって冷静さも消えてしまう。こうして彦根藩士は不利な装備と低下した士気によって負け戦を決定付けられたのである。

 

古楽

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