湖東・湖北 ふることふみ36
三献茶の謎
司馬遼太郎原作の『関ケ原』が映画化されたことは大きな話題になっている。戦国時代の終わりを決定付けた合戦を石田三成から描いた作品でもあり近年高まりつつある三成人気もますます拍車がかかり検証もされてゆくことを期待する。
今稿では『関ケ原』に便乗して石田三成伝承の一つを考えてみたい。
三成の人生を見るとき、その始まりの一つとして語られる逸話が「三献茶」である。簡単に内容を書くならば「羽柴秀吉が長浜城主になった頃、狩りに出掛け喉の渇きを覚え近くの寺に立ち寄った、そこで小坊主だった三成は秀吉に大きな茶碗でぬるめの茶を出し、二杯目は少し熱い茶を適量出した、試しに秀吉がもう一杯求めると熱い茶を小さな茶碗で出した。機転の良さを秀吉に認められた」というものである。この話は三成の死後百五十年ほど経った頃に『武将感状記』などによって世に知られるようになり江戸後期に儒学者大槻磐渓が記した『近古史談』でも取り上げられていて江戸後期には広く知られる逸話になっていたのだった。
しかしこの話にはいくつかの疑問が残る。まずは秀吉が長浜城主になる前には三成が誕生した屋敷近くの横山城で城代を務めていた秀吉が長浜城主になるまで三成のことを知らなかったことがあるのか? ということ、また秀吉が長浜城主になった頃に三成は既に十五歳であり三献茶くらいで秀吉が感心するのか? そして最大の疑問は三杯目の茶は何か? ということである。
当時は番茶などの熱くて味がある茶がない。抹茶や緑茶は熱すぎる湯では美味しくないのだ。一杯目は急にやってきた領主に作り置きの麦茶などを出したとして、二杯目に丁度いい温度の茶を出したとなると緑茶になる可能性が高い、こう考えると三杯目に出せる熱い茶がない、まして三杯も茶を飲んだらお腹が大変なことになる。
そこで、本当に三献茶があったとしたらどんな茶が出されたのかを考えてみた。
鷹狩を行い、喉を乾かした者にいきなりぬるい茶を大量に出せば一気に飲み干そうとして咽る可能性が高い、ならば一杯目はすぐに出せる作り置きの麦茶を一口か二口分準備してまずは喉を潤す、少し落ち着いているもののまだ足りないであろうからもう一度普通量の麦茶を出すことでやっと秀吉の喉も気持ちも落ち着くのではないだろうか。その間に湯を沸かして適度な温度になったところで緑茶を淹れた三成は、秀吉がゆっくりできるような状況を作ったのではないだろうか。先述したようにすでに三成を見知っていたであろう秀吉はここでじっくりと三成との時間を作り家臣に迎えることを決めたのではないだろうか。この話を実証するような史料はないもない、踏み込んで想像するなら、江戸初期に「三成は茶を三杯出して出世した」くらいの伝承があり現在の形を誰かが考えたのではないだろうか?
【編集部】