湖東・湖北 ふることふみ34
『琵琶湖周航の歌』100年

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年6月27日更新

5番の歌碑・彦根港

 平成29年6月、『琵琶湖周航の歌』ができて100年を迎える。様々な歴史を扱っているこのコーナーでは100年という時間はほんの一瞬のように感じてしまうが、一つの曲が残り歌われ続けるには途方もない時間となる。ましてや『琵琶湖周航の歌』は後世に残すために作られた訳ではなく一瞬で歴史の陰に消えてしまう寮歌として作られた物だったのだ。
 2年前に、原曲となる『ひつじ草』を作曲した吉田千秋の紹介したときにも書いた通り、『琵琶湖周航の歌』は作詞と作曲は別の人物であり2年の時間差がある、今稿では作詞者小口太郎の人生を追ってゆく。
 小口太郎は、吉田千秋の二歳下、長野県の諏訪湖近くで誕生した。小学生のときに諏訪湖を一周した記録を残すなど幼い頃から湖に親しんでいたことがうかがえる。そしてスポーツや音楽など多彩な趣味を持つ秀才だった。理系を得意としていて第三高等学校(現・京都大学)に入学、そこで水上部と弁論部に入部し琵琶湖と出会うことになる。三高水上部では毎年六月に大津の艇庫を出発する3泊4日(諸説あり)の琵琶湖周航オリエンテーションが行われていた。
 大正6年(1917)6月27日、大津を出発した太郎らは雄松(近江舞子)で一泊。翌日は今津まで移動。ここで太郎が書き留めていたメモのような詞に『ひつじ草』メロディーを合わせるとぴったりと合い『琵琶湖周航の歌』が奇跡の誕生を遂げたのだった。ここからは他の水上部員も詞を意識するようになり、レクレーションの後に部員らが協力して歌詞を完成させたと考えられている。その為かもしれないが『琵琶湖周航の歌』は周囲の風景を描写したような三番までと宗教的な香りすらも感じる四番からで歌詞の雰囲気がおおきく変わる。そして琵琶湖の光景を思い浮かべながらも多くの謎解きをさせてもらえるのだ。例えば五番の歌詞になっている彦根城は実際のお城とのイメージも違うことから太郎は彦根には寄港しなかったとの説もある。また水上部で使われている古い漕艇の名前である「比良」と「伊吹」の様子を彦根城に重ねたとも考える説も提示されているのだ。このような謎は歌詞全体に散らばっている。
 さて小口太郎は三高卒業後に東京帝国大学(現・東京大学)に入学。大正10年には『有線および無線多重電信電話法』で日本を含む8か国の特許取得、これは現在の光ファイバーの基礎となる研究で太郎が長命であったならば必ずノーベル賞を受賞していたであろうと言われているが大正13年5月16日に26歳の若さで亡くなったのだった。
 吉田千秋が『ひつじ草』を発表したのも小口太郎が『琵琶湖周航の歌』を作詞したのも21歳のときであり、2人とも20代の若さでこの世を去っている。そして『琵琶湖周航の歌』は2人の人生よりも長く生き続けることになったのだった。

古楽

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