湖東・湖北 ふることふみ33
井伊家千年の歴史(19)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年6月9日更新

小野但馬終焉の地・手前の巨石が但馬の供養石と言われている

 戦国時代の井伊家を語るうえで必ず登場する一族が小野家である。しかも井伊家を窮地に落とす獅子身中の虫として扱われている。
 伝承では小野家は小野篁の息子俊生が遠江に住んだことが始まりとされているが、最近では「英比」という家であったとされていて井伊一族だったのではないかとの説や、水野家に繋がる三河の阿久比一族ではないかとの説もある。どんな出自にせよ小野兵庫助という人物が井伊直平に登用された。その理由は兵庫助の文化レベルの高さで、今川義元に仕えるようになった直平にとって必要な人材だったと言われている。これにより井伊家の代表として義元の許に赴くことが多くなった兵庫助はだんだんと今川氏の意向を井伊家に伝える仕事が増えたとも考えられるのだ。
 その兵庫助と同一人物か、一族なのか、は不明だがやがて兵庫助から和泉守へと小野家の主が替って行く。今川氏に近くなった小野家は井伊家家中で浮いた存在になり、井伊一門の直満と対立をするようになった。そしてそんな直満の息子が井伊家直系の直盛の一人娘と婚約し危機感を抱いた和泉守は、直満が武田信玄と内通していると訴えて直満が殺されたとされているが、この時代に信玄が他国へ侵略するだけの基盤はなく今川氏にとっての脅威は北条氏であったため、現在では内通相手は今川氏康でありこれを積極的に行ったのは直平であったと考えられている。私自身、和泉守は直平の井伊家を守るために直満を人柱にしたと考えている。
 直満殺害から10年が過ぎようとする頃に和泉守病没。跡を継いだ但馬守も義元に近い存在であったが但馬守の弟である玄蕃は直満の息子で井伊家の世継ぎとなった直親に仕えていて井伊家と小野家は友好を保っていた。
 しかし桶狭間の戦いで義元や直盛が戦死し、猜疑心に襲われた今川氏真は但馬守を利用して井伊家を滅ぼす方向へと進んでいった。直親が暗殺されただけではなく直平や今川一門の新野左馬助までも非業の最後を迎える。こうして直虎が女領主となり、小野但馬守は家老として井伊家を支える筈だったが氏真の指示によって直虎に徳政令を発するようにとの無理難題を押し付け、これを抗しきれなくなった直虎が徳指令を発したのと同時に井伊家の所領はそのまま但馬守に横領される形となってしまったのだった。しかし一か月強の後に徳川家康の遠州侵攻が始まり但馬守は井伊谷城を追われ四か月後の永禄12年(1566)4月7日に井伊谷領の刑場である蟹淵で処刑される、1か月後には幼い2人の男児も処刑された。
 伝聞だけを紐解くと小野一族は井伊家を滅ぼした原因のように言われているが、小野玄蕃の息子は井伊直政に仕えるなど小野家はその後の井伊家にも良い影響をもたらしている。一面から見たら佞臣かもしれないがその裏には深い忠義があったのかもしれないのだ。
 さて、次稿からは井伊家から離れる、秋にまた井伊家を書きたいと思っている。

古楽

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