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井伊家千年の歴史(17)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年4月6日更新

井伊直盛の陣跡(桶狭間小学校)

 井伊家の歴史は今川氏との関係が大きく影響することが見えてくる。そんな今川氏の没落するきっかけとなるのが桶狭間の戦いであり、この合戦は井伊家にとっても大きな分岐点となった。今稿では、桶狭間の戦いで井伊直盛がどの様に動いたのかを見て行くことにする。
 永禄3年(1560)5月の時点で、今川氏の家督は氏真に譲られていて義元は隠居の立場だった。そして朝廷に働きかけて三河守に任官され今川氏が東へと進むことを宣言していた。その宣言通り尾張国の新興勢力である織田信長を討つために兵を挙げたのであるが、これは急な思い付きではなく義元が何年もかけて準備していたことだった。特に五年前の村木砦の戦いでは信長は舅の斎藤道三に援軍を頼み何とか勝利を収めるものの子飼いの武将を多く討死させてしまい織田軍の再編成を迫られることになる。このきっかけで前田利家や羽柴秀吉が台頭するのであるから歴史の結果は分からないものだが、戦いの直後の信長は意気消沈していたであろうし同時に義元に対抗心が生まれたであろう。
 さて桶狭間直前。外様として松平元康と共に先陣を命じられた井伊直盛は大高城を睨む丸根砦と鷲津砦攻略に向かう。元康が丸根砦を攻め、直盛は朝比奈泰朝と共に鷲津砦を攻めていたが5月18日に沓掛城に入った義元に呼ばれた。そこで元康には大高城へ兵糧を入れてそのまま城に留まるようにとの命が下り、直盛は本陣と共に行動することになったが、これが井伊家の悲劇を生む。勝戦が決定していた戦いでは士気は上がらず臨機応変な動きも望めない。突然の突風と雹によってますます厭戦気分になった今川軍の本陣のみを目掛けて織田信長が突入してきた。一種運何が起こったかわからない、それが今川軍の兵士を逃走させ、近くにいた井伊軍にも伝播した。直盛がいかに叫ぼうと一旦逃げると決めた兵は勇気を示せない。直親の家老として期待されていた小野玄蕃を始め主だった武将16名が討死した。そして直盛自身も奥山孫一郎に遺言を託して自害したと『井伊家傳記』は伝えている。その日の夜半辺りから逃げ帰った者たちの口から負戦であったことが伝わったと考えられ、直虎や直親は直盛の安否を考えながらも負傷した者の治療と織田軍の襲来に備えての軍備強化を行わなければならなかったのだった。この日を境に井伊家は滅亡の道を進むことになる。しかし、もし元康と共に直盛が命を長らえていたら、徳川家家臣井伊直政は誕生しなかったとも言える。
 名古屋市緑区の桶狭間古戦場では井伊直盛の陣跡を巻山と推定している、これは巻山という地に直盛が陣を張ったのではなく直盛をめがけて織田軍が山を取り巻いたことから後にこの名が付いたらしい、現在は桶狭間小学校が建ち地域の子どもたちの学び舎となっている。直虎をきっかけに案内板が作られたそうだ、450年以上の月日を経て同じ場所が戦争と平和の証として共存しているのだ。

 

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