直虎と彦根

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年1月5日更新

天寧寺の前身は、直政が母の菩提を弔うため彦根城下に建立した宗徳寺だった。

 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の番組宣伝が始まって、いよいよ直虎という女性を全国の人が知るところとなった。井伊谷や井伊家の歴史については、『井伊家十四代と直虎』(彦根商工会議所編 サンライズ出版)、古楽氏の本誌連載「ふることふみ 井伊家千年の歴史」を読んでいただくとして、ここでは誰でも知っている井伊直弼の事跡から、直虎へ思いを馳せてみた。
 「開国の元勲」、或いは「国賊」、日本の歴史において井伊直弼ほど評価が分かれる人物もいない。その評価は、ある時々の、ある人々によって創られ、巧みに利用され、立場や主義、生まれた場所によって、様々な歴史観がある。そして、文久改革以来、傷ついた誇りを回復しようとする努力は今日、いまも続き結着がついていない。
 「井伊直弼供養塔」は、井伊家ゆかりの天寧寺(彦根市里根町232)にある。直弼が桜田門外で暗殺されたあと、亡骸は井伊家の菩提寺である東京世田谷豪徳寺に葬られたが、その遺品は四斗樽に詰められ血染めの土とともに彦根に運ばれ、直弼の父直中が建立した天寧寺に埋設された。その上には宝篋印塔が建てられ直弼の菩提が弔らわれたのだ。
 実は天寧寺は井伊直中が建立した寺だが、その前身は、井伊直政が母の菩提を弔うため彦根城下に建立した宗徳寺だった。宗徳寺は里根に移り天寧寺となった。直政の母の戒名は「永護院殿蘭庭宗徳大姉」。
 ところで、井伊直弼は嘉永4年(1851)に、井伊直親の墓(静岡県浜松市北区引佐町中川)に灯籠を寄進している。直親は、叶わなかったが直虎の許婚であり、彦根藩初代となった井伊直政の父である。
 実は、彦根近辺に残っているだろうはずの直虎の事跡を探したのだが、何一つ発見することができなかった。何か理由があるはずと考えてしまうほどである。直政は母を供養するための寺を建立し、直弼は直政の父の墓に灯籠を寄進するほど先祖を大切にするDNAが継承されているにもかかわらず……。

井伊直親の墓(浜松市北区引佐町)にある直弼寄進の灯籠

 『彦根市史 上冊』(昭和62年復刻版)には、直虎についての記述は見当たらない。『新修彦根市史第二巻』(平成20年)では、「井伊谷の次郎法師」とし、「直虎」という名は記されていなかった。
 ところで、面白い伝承があった。ひとつは、彦根市本町の福智山地福院(廃寺)である。近年まで「慶山」と呼ばれ親しまれていた。彦根の七夕まつりの起源ともいわれている寺だ。開祖大蔵院順慶は元、今川氏の家臣だった。義元が桶狭間の戦いで敗れ、順慶は修験者となった。京都六角の住心院に居た時の話である。井伊直親が掛川で殺されたとき、虎松にも危険が及び、三河の鳳来寺に匿われてから後、母とともに住心院を訪れ、順慶の庇護で今川氏の追っ手を逃れ十二歳まで過ごした。そして、徳川家康が関ヶ原合戦に勝利し、佐和山に封ぜられた直政が彦根藩初代となったとき、順慶の恩に報いるため彦根に呼んで宗安寺内に一庵を与えた。その後、本町に福智山地福院を開基した(『彦根史話 上』)というものである。
 『近江国坂田郡史 第六巻』は永禄七年(1564)4月より6月に至る2ヶ月間、今川家より命を狙われていた井伊萬千代(のちの直政)が、米原市上多良の眞廣寺にて匿われていたことを伝えていた。
 直虎の事跡は存在しないが、直虎が生きていた井伊谷へ繫がる伝承は数多くあるに違いない。「おんな城主 直虎」の放送がきっかけとなり、僕らは淡海で盛り上がる。
 そういえば、江戸時代の名物に「京橋うなぎ」とあった。彦根の京橋だ。井伊谷は浜名湖の湖北にあり、浜名湖はうなぎが名物! そんな具合に楽しんでみたい。

小太郎

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