近江鉄道は創立120周年
誰も気づいていない近江鉄道の日本一

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 2016年6月6日更新

近江鉄道株式会社本社ビルの横、「辛苦是経営」の碑(2013年撮影)

 平成28年(2016)6月16日、近江鉄道株式会社は創立120周年をむかえる。記念セレモニーとして、近江鉄道彦根駅で平成13年(2001)年10月に引退したモハ1型の塗装「赤電」を復活し出発式を行うことになっている。
 鉄道マニアの間ではよく知られたことなのかもしれないが、近江鉄道は毎年日本一の記録を更新し続けているのである。まず、簡単に会社設立の歴史を振りかえってみることにする。
 近江鉄道の創立願書は、明治26年(1893)11月29日、滋賀県在住の発起人44名から滋賀県庁をへて逓信大臣黒田清隆へ提出された。蒲生・神崎・愛知の三郡を横断し、江州米などの物産運送とともに、伊賀伊勢を鉄路で結び南部の発展を期するものであった。
 旧彦根藩士の西村捨三や大東義徹が主導権を握っていた。大東は滋賀県選出の衆議院議員であり、明治31年(1898)に大隈内閣の司法大臣となった人物である。
 西村や大東らの働きかけに応じて、彦根の前川善平、愛知郡小田苅村の小林吟右衛門(四代)、蒲生郡日野町の正野玄三をはじめとする沿線の近江商人が発起人として名を連ねた。
 明治28年(1895)12月24日、近江鉄道株式会社創立総会を開催し、初代社長に大東義徹を選出。
 明治29年(1896)6月16日に会社設立認可、近江鉄道株式会社を設立。同年9月、路線建設に着工。明治33年(1900)12月全線開通となる。
 さて、近江鉄道の何が毎年日本一の記録を更新し続けているのか……。
 明治39年(1906)の鉄道国有法公布以前に設立した私設鉄道で設立当時の社名のまま今日まで存続している私鉄は、「東武鉄道」と「近江鉄道」の2社のみである。
 鉄道国有法公布により、私設鉄道の大半は現JR各線となるほか、私鉄間の吸収合併により社名や線名が変更されている。例えば、現存する日本最古の私鉄・南海鉄道は、他社へ吸収合併後、戦後南海電気鉄道として分離している。また、国有化の対象から外れた伊予鉄道は伊予鉄道電気と改称していた時期があるのだ。
 そして「東武鉄道」は、明治28年4月6日創立願提出。明治30年9月3日、設立本免許状が下付。明治30年11月1日設立登記。この日が東武鉄道の創立記念日である。
 つまり、近江鉄道株式会社は「設立当時の社名のまま今日まで存続している日本一古い鉄道」なのである。
 平成22年(2010)3月19日、彦根駅東口(彦根市古沢町)に竣工した近江鉄道本社ビルの横に「辛苦是経営」の碑が建っている。この五言句は、経営が逼迫するなかで取締役を10年間務めた西村捨三が、明治37年(1904)に職を辞するにあたり残した言葉だ。西村は、内務省土木局長、大阪府知事(第6代)などに就任。近江鉄道設立に深く関わり、北海道炭鉱鉄道の社長でもあった。創業期の近江鉄道は西村の残した言葉通り「辛苦是経営」そのものだったのだ。
 日清戦争後の恐慌と未曾有の風水害による資金難と、開通後の利用客は予想を大きく下回り、経営は困難を極めた。明治34年(1901)には滋賀県議長宛に救済請願書を提出するまでに経営は逼迫する。小林、正野、阿部市郎兵衛(七代)などの近江商人らが救済に乗り出していなければ近江鉄道は確実に破綻していたという。近江鉄道は旧彦根藩士が発議し、明治の近江商人の資力によって支えられた鉄道なのである。
 「辛苦是経営」の碑を見るたびに、幾多の経営難を乗り越え現在に至る鉄道であることを想うのである。

参考

  • 『彦根まちなか博物館 近江鐵道コレクション』編集 彦根商工会議所事業委員会(2007年)
  • 『滋賀県の近代化遺産ー滋賀県の近代化遺産(建造物等)総合調査報告書ー』滋賀県教育委員会(平成12年)
  • 『彦根ゆかりの近代化遺産』彦根市教育委員会 / 平成12年度生涯学習通信講座テキスト

編集部

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