近代化遺産を巡る旅
次なるヒーローは、長野主膳義言だ!!

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年4月13日更新


天寧寺 長野主膳義言の墓碑と歌碑

 長野主膳義言……。幕末の国学者で井伊直弼の師である。徳川御三家の一つである紀州和歌山藩とも密なつながりがあったといわれているが、長野は謎に包まれた人物だ。
 幕末、一橋派橋本左内らの朝廷工作に対し、長野は関白九条家を通じて裏工作を行い、安政の大獄では、反対勢力の一橋派や尊皇攘夷派の排斥を直弼に進言し、尊攘派の反感を集めることとなった。長野は、小説や映画ではダークサイドの人物として描かれている。
 また、井伊直弼の顕彰が進むなかにあって、「悪いのは長野なのだ」「安政の大獄は長野が全部やった」と、責を全て長野に押しつけ、直弼のイメージアップに利用されている雰囲気もある。誰も直弼の師である長野という人物を庇うことをしない。
 桜田門外の変後も直弼の遺志を継ぎ、忠節を尽くしながら、和宮降嫁による公武合体を実現させた人物であるにもかかわらず、長野の側から話す人に僕は会ったことがない。
 広く浅くだが、長野について調べてみた。石田三成の次のヒーローは長野主膳義言だと僕は感じた。

彦根藩によって斬首

 
 桜田門外の変後、井伊政権を清算しようとする幕府が「文久の幕政改革」で藩を門罪すると、長野は藩主井伊直憲により逮捕、投獄され、僅か3日後に斬首・打ち捨ての刑に処せられた。彦根藩は、罪を長野に負わせたのだ。「文久の幕政改革」の話は何れまたするとして、要点だけを記す。長野の斬首の決断を下したのは藩主井伊直憲だが、当時直憲はまだ15歳、家老岡本半介(後の岡本黄石)の進言によると伝えられている。しかも、実際は岡本の判断ではなく、渋谷騮太郎(後の谷鉄臣)が岡本に進言したのものだったという。渋谷は、明治になって自身の懐旧談として次のように語っている。
 「文久2年頃、諸藩士の間で在京の長野の首を切って鴨川に晒し首にし、彦根藩の悪行を書き立てようとの噂があった。危険を感じた長野は、密かに京を離れ彦根へ戻って家老木俣邸に身を寄せていた。しかし、ある日彦根城下油屋町(現在の中央町・立花町の境)の藤嘉という道具屋から、土佐訛の見慣れぬ2人の武士が出てきたので店の女房に尋ねたら、長野が来ていないか聞かれたとのこと。これは猶予ならないと思い、すぐ同志の外村省吾・北川徳之丞・河上吉太郎らと、他藩の者に長野の首を取られると一大事になる、早く彼を処分するべきだと相談した。そして、岡本の屋敷へ出かけて事態の危急を論じ、彼を捕え、家老木俣・庵原の出仕停止を決めた」。長野の罪状は、『姦計を以て重役の者に取入、御政道を取乱シ、御国害を醸し、人気を動揺いたさせ候挙動、言語道断・不届至極、重罪之者ニ候』。
 谷鉄臣と交流のあった尊王攘夷派の西川吉輔は、長野について「彦根藩内においては誹謗の声はなく、彼は非常に人が良く、私財をためない清廉潔白な人間であった」と評している。
 『長野義言と門人中村長平阿利能麻々』に次の一文をみつけた。「大老の失敗は悉く長野の責に帰し、遂には断じて持って姦曲の臣となすが如きは、長野の心事をあやまるも甚だしいと言わねばならぬ」、「犠牲と汚名を一身にうけて悠々死に就いた主膳の挙動は、平常になんら異なるものはなかったとはいえ、その遺恨の心中、察するに難くない」。

近代化遺産としての地蔵尊と歌碑

彦根城町一丁目 義言地蔵

 「幕末から第2次世界大戦期までの間に建設され、我が国の近代化に貢献した産業・交通・土木に係る建造物」が近代化遺産である。そして、それらは日本の近代化にかかわる遺跡、銅像や顕彰碑も含まれ、 政治・経済・社会・教育・思想・文化・宗教といったさまざまな領域で推し進められた近代化を今によく伝えているものでなくてはならない。
 彦根城町郵便局の前に「義言地蔵尊」がある。藩政時代には牢屋があり「牢屋町」とも呼ばれていたところだ。 斬首後も遺骸打ち捨てになった長野の霊を鎮めようと、長野の門人であった中村長平が石の地蔵尊を祀ったのがこの地蔵尊だ。義言や連座して亡くなった人々の遺族に対しても、中村は自らの危険をかえりみず、あたたかい援助を続けた。
 天寧寺には「長野主膳墓碑」がある。「長野主膳之奥津城」(神道式の墓)と刻まれ、小さな歌碑が添えられている。
 実は、明治になってからも斬首された長野を正式に弔うことはできず、明治5年(1872)に白骨化した長野の遺体を弟子たちの手で天寧寺の直弼供養塔の近くに埋葬し、「歌碑」を建立したのである。その時には墓標を建てることは許されず、主膳の百回忌にあたる昭和37年(1962)にようやく建立された。
 中村長平の遺言は「我が遺体を長野先生の傍らに埋葬せよ、そうすれば、誰顧みる者はなくても、我が孫子の手によって、長野先生の墓に香花がたむけられるであろう」。中村は明治36年11月22日、68歳で没した。墓は遺言通り、義言の傍らにある。

 飛鳥川
  きのうの淵はけふの瀬とかはるならひを
   我が身にぞ見る

 長野主膳義言辞世である。

 天保12年(1841)の冬、近江に妻と共にやってきた長野は、才能溢れる国学者だった。旧山東町市場の医者・三浦北庵宅とその近くの鎌足神社隣の長屋に滞在した後、志賀谷に移り、国学塾「高尚館(桃廼舎)」を開く。それ以前の長野のことはほとんど判らない。
 長野は、突如彗星のごとく現れ、藩主直弼のためだけにその才能を使い、開国と公武合体を成功に導き、全ての汚名を引き受けて死んでいった、儚い彦根藩士ではなかったのか。
 今回僕は近代化遺産を巡り、ものすごい長野ファンになってしまった。

参考文献

  • 『改訂近江國坂田郡史』
  • 『長野主膳義言と巖佐由』柏原宿歴史ふれあい友の会・平成15年
  • 『井伊直弼』母利美和・吉川弘文館・平成18年
  • 『長野義言と門人中村長平 阿利能麻々』田中千和・昭和27年

 

小太郎

スポンサーリンク
関連キーワード