3月3日、気になるのは長野主膳義言!

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年3月7日更新

義言地蔵

 長野主膳義言は、安政7年(1860)3月3日桜田門外の変後も、井伊直弼への忠節を尽くしながら、彦根藩によって斬首された。直弼の遺志を果たせぬままの突然の仕置きに対する覚悟と無念、主君の汚名が雪がれることを念じながら、刑に甘んじたのである。
 長野主膳の幼名は主馬、諱は義言。本居宣長派の国学者である。天保12年(1841)の冬、近江に入った。まず旧山東町市場の医者・三浦北庵宅とその近くの鎌足神社隣の長屋に滞在した後、国学塾「高尚館」を開いた。
 今、この長野という人物に注目している。安政の大獄を実質的に推し進めた人物で、ダークサイドの住人というイメージが定着しているが、実際のところどんな人物だったのだろう……気になっている。
 長野は、斬首され、葬礼は禁止された。斬首後も遺骸打ち捨てになった長野の霊を鎮めようと、門人であった中村長平が石の地蔵尊を祀ったのが義言地蔵(彦根市城町)である。
 天寧寺には「長野主膳墓碑」がある。「長野主膳之奥津城」(神道式の墓)と刻まれ、小さな歌碑が添えられたように見えるが、実際は違う。
 明治になってからも義言を正式に弔うことはできず、明治5年(1872)に白骨化した遺体を弟子たちの手で天寧寺の直弼供養塔の近くに埋葬し、「歌碑」が建立された。

 君がこの 今日のい出まし 待ち得てぞ
 萩の錦も はえまさりける

 そして、長野主膳之奥津城の墓碑は、主膳の百回忌にあたる昭和37年(1962)にようやく建立されたのである。そのことを知る人はほとんどいない。 長野を幕末の朝廷工作や、安政の大獄の実行者というダークサイドの人物としてではなく、国学者として顕彰する時期がきているのではないだろうか。
 3月3日が近づき、そんなことを気にしている。

小太郎

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