到達困難地蔵2 多賀町保月「乳地蔵」

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 2015年8月28日更新

 本当に久し振りに、多賀町栗栖から杉坂峠、杉、保月、権現谷を走った。到達困難地蔵の2回目は杉と保月の間にある「乳地蔵」にしようと決めていたからだった。乳ばれや乳の出にくい女性にご利益がある。乳地蔵へは対向の車があると待避のできる場所までどちらかがバックしなければならない林道が長く続いている。杉坂の峠を越えるまでは待避路もほとんど無く、対向車の無いことを祈るばかりだ。
 乳地蔵は3本の大杉の木に守られ霊験に満ちた場所にある。デジタルカメラのシャッターが降りなくなる。オールドレンズの露出リングがズレていただけなのだが、こういう場所ではよくある話である。
 この地蔵のことは、昔、国土地理院の5万分の1の地図を頼りに林道を走っていた頃に知った。地蔵を守る杉は「薩摩杉」だという。「薩摩杉」とは「屋久杉」の異名だ。ただ樹齢が千年以上でなければ「屋久杉」と名乗ることはできない。だから「薩摩杉」と異名があるのだろうか? 樹齢400年、樹高37メートル、樹幹周囲7.3メートルと多賀町観光協会のホームページに記してあった。3本の杉のどの木の計測値かは判らない。確かに乳地蔵の杉はそれらしき雰囲気があり、多賀町で見ることができるとは…感激である。
 ところで、関ヶ原合戦で、島津藩の敵中突破はあまりにも有名だ。「島津越え」、或いは「五僧越え」と呼ばれる島津義弘らが通ったルート上に、恐らくこの乳地蔵は位置しており、「島津義弘に縁の地蔵」とも伝わっている。樹齢400年の薩摩杉である。伝承を疑う余地はないだろう。敵中突破の最中、井伊直政に鉄砲傷を負わせた西軍の島津藩である。江戸時代「島津義弘に縁」とは言うことはできなかったが故「乳地蔵」となったのかもしれない。
 山の不便なところに何故、人は集まり暮らしを営んでいたのか。そこには糧となる仕事があり、生活に必要なエネルギーまでも、耕作と山の賜り物で自給自足が可能だったからだ。言い換えれば、山間は平地よりも豊かで暮らしやすい場所だったのだ。乳地蔵のご利益を求め多くの人々が訪れた頃には戻ることはできない。それ故、実に到達困難地蔵なのである。

編集部

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