長久寺「普門白桜」遠望

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2015年3月24日更新

 彦根市後三条町にある「普門山長久寺」は長久3年(1042)、高野山の善應僧都開創の古刹だ。江州彦根観音とも呼ばれ、観音堂には本尊千手観世音菩薩(聖徳太子作伝)が祀られている。雨壺山の麓にあるこの寺は訪れる者の興味によって様々な姿をみせてくれる。
 原稿を書いている今頃は「御覧の梅」が香っていることだろう。推定樹齢800年の古木である。源頼朝が上洛の折に大堀村でオコリを病み、この寺で祈願すると快癒した。頼朝は感謝し、自ら紅梅を植えたと伝えられている。この梅を、関ケ原合戦後の佐和山城攻めの際、平田山に陣を置いた徳川家康が落城の後に見たので、「御覧の梅」という名が伝わっている。平成18年、彦根市指定保存樹木となった。
 長久寺というとよく話題となるのが、「お菊の皿」である。寛文年間(1655~1672)、彦根藩主井伊政澄の代に実際にあった悲恋物語が伝わっている。孕石(はらみいし)家の当主政之進と芹橋14丁目の足軽の娘お菊との江戸時代の恋愛事件である。
 「菊は孕石家の侍女として働いている。政之進には亡き親が取り決めた許嫁がいたが、二人は深い仲となっていた。後見人の叔母が許嫁との挙式をせきたてるため、菊の心中は穏やかではない。思案余って政之進の本心を確かめようと、孕石家代々に伝わる白磁の皿十枚のうち一枚を故意に割ってしまった。政之進は、自分の心を疑われたことが口惜しく、武士の誠を試そうとしたことに憤慨し、菊の面前で残りの皿九枚を柄頭(刀の切っ先と正反対の位置にあたる金属製の部品)で打ち砕き、菊を手討ちにする」。全国に残る数ある皿屋敷伝説のなかで、唯一「お菊の皿」と「お菊墓」が遺っているのは長久寺だけだ。お菊の墓には法名「江月妙心」と刻まれている。
 その他、「日下部鳴鶴(東作)書の碑」「堀巌山文塚」「龍草廬文塚」が寺内に遺る。文塚とは『詩文などの草稿を埋めて供養や記念のために建てた塚』(広辞苑)のことである。
 龍草廬は、正徳5年(1715)京都伏見の御香宮門前に生まれた江戸中期を代表する儒学者・漢詩人である。宝暦6年(1756)には正式に彦根藩の儒学者として採用された。以来約20年間、彦根の人となり、儒学の指導者として多くの門人を得たという。龍草廬文塚の辺りは、かつてここに行者堂があったことを忍ぶ「湖水講大先達」の石碑が建っている。明るく開けた草地の向こうに湖が見える。龍草廬の愛した風景がある。
 この見晴らしは映画『僕は友達が少ない』(監督 及川拓郎・2014)に映っている。DVDも発売されているし、インターネット上にアップされている予告編でも長久寺からの風景を見ることもできる。
 日下部鳴鶴、堀巌山についても書いておきたいが今回は諦めるしかない。
 さて、桜の季節が訪れる。実は長久寺に森川許六が「普門白桜」と記している今はほとんど語られることのなくなった霞のような桜がある。
 許六は、彦根藩士としてではなく「蕉門十哲」の一人としてよく知られている。「許六」の名も芭蕉が与えたものだ。許六は明暦2年(1656)8月14日の生まれ。本名は森川百仲といい、禄高300石。通称を五助。五老井・菊阿佛・無々居士を号した。。代々、武術指南役を務める武術の達人で、屋敷は、彦根商工会議所の前、道路を挟んだ北側のNTTの辺りにあった。現在、『森川許六屋敷跡』の石碑が建っている。
 「御覧の梅」から階段を登る途中に「日下部鳴鶴(東作)書の碑」、「堀巌山文塚」がある。見上げれば「普門白桜」……ゴールデンウィーク辺りが見頃だろうか。平らなところに出るとそこには、龍草廬の愛した風景がある。僕は今、梅と桜を遠望している。

参考文献

  • 長久寺パンフレット
  • 『彦根史話・下』宮田常蔵著・発行所彦根史話刊行会
  • 『彦根遊び博 雨壺山の自然と歴史』滋賀大学 2007年

長久寺

滋賀県彦根市後三条59
TEL: 0749-22-0914

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

小太郎

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