土橋の弁天さん

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 2015年1月30日更新

 銀座商店街の一本裏通り、彦根に残る唯一の銭湯「山の湯」の向かいに弁天さまを祀った小さな社がある。地元の人から「土橋の弁天さん」と呼ばれるこの社は、明治十三年(1880)に建立されたものだという。この界隈は、彦根城の高宮口御門があり外堀に土橋が架かっていたことから土橋町と呼ばれ彦根の中心地として栄えた。おそらくは、当時の人々が商売繁盛や火災除けなどを祈願して建てたのだろう。「弁天さん」と呼ばれているが、火伏せの神様である荒神さまと商売の神様である蛭子さまが一緒に祀られている。今となっては建立当時のことを知る人もいなくなってしまったが、その後明治三十五年(1902)に、当時まだ佐和山の麓にあった千代神社の御旅所として寄付されたという記録が残っているそうだ。
 現在でも地元銀座町の自治会によって年に3回、この社で祭礼が行われている。実は昨年から、自治会の「お宮さんの役」を受け、僕もこの祭礼に参加させてもらうようになった。

 祭礼の当日、いつもは閉まっている社の扉が開かれ、祭壇にはお供え物が並ぶ。自治会の役員が参列し、千代神社の布施博章宮司によって祝詞があげられる。ひっそりとした裏通りは神聖な空気につつまれる。20分ほどの祭礼だが、明治時代からずっと町の人々により守り続けられていることを考えると背筋がぴーんと伸びる思いだ。布施宮司の「祭祀は同じことを同じようにずっと続けていくことが一番大切なんです」という言葉が印象的だった。
 ところで、弁天さまはインドの水の女神サラスヴァティーを起源とする仏教の守護神だ。竹生島の宝厳寺や彦根の大洞弁才天など、僕たちにとってはお寺の本尊としてのほうが馴染み深いので、祭壇の様子は不思議な感じがした。神仏習合によりお寺でも神社でも祀られているのだそうだ。神社では、宮島の厳島神社の祭神として有名な市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と同一視されることが多いという。
 「土橋の弁天さん」がどこから勧請されたのかは定かではない。近くに「犀ヶ淵(さいがふち)」と呼ばれる湧き水があったことから水の神様である弁天さんを祀ったというのも納得できそうな話ではある。
 天保七年(1836)に作られた「御城下惣絵図」(彦根城博物館蔵)は、彦根城内から城下町全体までを描いた絵図で、明治初期、廃藩置県直後までの変遷が加筆修正されているので、何か判るかもと思い調べてみたが、土橋の弁天さんのある所は外堀の土塁だった。明治の記録には地名として「土橋町朝日山」という記述があった。このあたりも何か手がかりになるかもしれない。明治元年(1868)の神仏分離令以降の明治13年の勧進だから弁天さんをという明確な意図があったはずである。「土橋の弁天さん」とそれにまつわる町の人の記憶を、「お宮さんの役」をしている間にもう少し掘り起こしてみたいと思っている。

はじめ

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