湖東・湖北 ふることふみ5
幕末の名もなき女性の記録

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2015年1月16日更新

 今回は、場所ではなく一枚の古文書から話を進めていきたいと思う。
 江戸時代も安定した時期になると、日本人は思った以上に文化的な生活を送っていた。読み書きそろばんと言われる基礎的な知識は現代のヨーロッパに並ぶくらいに当たり前の物となっていた。また現在の戸籍に近い制度も確立している。この制度を俗に「人別」とも呼び、人別を記録した正式な書面『宗門人別改帳』によって、民衆の宗門や所在地、家族構成などが残されていた。
 この『宗門人別改帳』は、人間の移動も記録され、例えば旅行に出るときに関所で見せて身分を保証する手形の発行にも大いに関わってくる。村の寺が管理を行い役人や庄屋・横目(監察官)が今の役場の窓口のような仕事をしながら管理していたのだ。つまりは記載の移動にはこれらの役人たちによって報告されていたことになる。

 さて、今稿で紹介する古文書は、そんな『宗門人別改帳』の移動に関わる物で、私の書斎に積まれている。
 嘉永7年正月なので、ペリー率いる黒船が浦賀沖に来航した半年後になり、再来航する月だ。このとき、愛知郡中下村(現在の彦根市金沢町)に住む太蔵の娘まさが嫁いでゆくことになった。
 残念ながら私は古文書を読むことを専門としていないので、文章を正確に表すことができない。しかし、このような物はある程度形式化された雛形があり、それに沿った形で書かれているので大まかな内容は理解できる。この文中には「まさがそちらの村に縁付いて嫁ぎます。こちらの宗門人別改帳からまさを削除したので、そちらで記載していただきますように念の為に切手(書面)を送ります」と、書かれている。
 まさの嫁ぎ先は愛知郡田原村(現在の彦根市田原町)なので、地図を見てもそれほど離れた場所ではないが、まさはこの『人別送り切手』と題される文書によって正式に田原村の住民となったのだ。
 この頃の両村の『宗門人別改帳』を拝見できれば、まさが何歳で嫁ぎ、どの年齢まで生きていたのか調べることも不可能ではない、平均的な寿命を迎えていたならば明治という時代を生きていた可能性が高く、この村で暮らし続けたならばまだ彦根市役所の除籍謄本にも名前が出てくるかもしれない。それほど遠くはない時代を生きた女性なのだ。嘉永7年(1854)に結婚したときの年齢が、当時の適齢期である十代後半であったとするならば、大河ドラマ『八重の桜』の山本八重や『花燃ゆ』の杉文と同世代の女性である。桜田門外の変や文久の上知で彦根藩領が大きく騒いだとき、また、戊辰戦争から続く明治維新で日本が変わったときをその目で見て何かに関わっていたかもしれない。
 しかし、歴史はまさという人物に大きな舞台は与えなかった。その代りに160年が過ぎようとする頃に、一枚の古文書として地元の歴史好きに結婚した事実を知らせ、今稿で読者に知られる人となった。もしかしたらまさの子孫の方が、ご先祖様の話とは気が付かないままこの文章を読まれているかもしれない。そう思うと、何気ない一枚の古文書すらも大切な歴史遺産に見えてくる。

 

古楽

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