「旭の森」の由来

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2014年11月5日更新

 彦根に「旭の森」という美しい町名がある。城下町に由来する町名でも、幾度となく行われた町名変更によって名付けられたものでもない。僕は彦根の近代化遺産を調べていた時「旭の森」の由来を知った。
 始まりは、彦根東高等学校の作法室からだ。少し長い話になる。
 大正6年(1917)、湖東平野で秋季陸軍特別大演習が行われた。命令が下ったのは前年の12月27日のことで、第一次世界大戦の最中だ。「京都占領を目指して北国街道と中山道を前進する北軍を、和歌山付近を発した南軍が迎え撃ち阻止する」(新修彦根市史第三巻通史編近代)という想定だった。彦根中学校(現彦根東高等学校)が大本営となった。大本営とは「明治以降、戦時または事変の際に、天皇に直属して陸海軍を統帥した最高機関」(広辞苑)である。
 戦闘演習は11月13日から16日までの4日間行われ、4個師団、2歩兵部隊など飛行隊合わせて兵員4万1516人、馬4560頭、「南軍の先遣隊は湖上を渡り長命寺付近に上陸し、観音寺山東麓を占領。一方北軍は長浜から湖上輸送により瀬田付近に上陸、瀬田川鉄橋を爆破して敵の進路を遮断」(彦根ゆかりの近代化遺産)するなど実践さながらの大規模なものだった。
 この時、大正天皇は13日から18日の間、統監のために彦根に滞在し、大本営内に御座所(天皇など高貴な人の居室)が設けられた。この御座所が現在の彦根東高等学校作法室として残っている。庭には「大本営碑」が建っている。
 「大本営碑」の他にも彦根市内には秋季陸軍特別大演習を記念する石碑がある。亀山村(現賀田山町)茂賀山の「歴山碑」は、天皇の休憩所である御野立場が設けられたところにあり、旭の森の亀甲山に「旭の森記念碑」が建立されている。
 以前、マンガン鉱山のあった大堀山について話したことがあったと思う。別名を鞍掛山。諸説はあるが、万葉集に登場する「鳥籠山」の候補地のひとつとされている。標高約150メートル、彦根市内を見渡せる頂上に「東宮駐駕所」と記した石碑がある。裏側には「明治四十五年四月二十七日 為陸軍参謀演習御見学」と記されている。明治天皇が崩御され、代って東宮殿下(後の大正天皇)がこの演習御見学の為、鳥籠山に登られた記念碑だ。かつて毎年のように陸軍の演習が湖東平野に展開されたらしい。
 「旭の森記念碑」のある亀甲山は芹川をはさみ大堀山と向かい合っている。大正天皇にとって、大堀山も亀甲山もよく見知った風景だったに違いない。
 「旭の森記念碑」は、大正天皇が秋季陸軍特別大演習の際、亀甲山(大堀町)に登ったとき、森の茂みが朝日で輝いたことからこの山を旭の森と名づけたことを記念する石碑で、「大本営碑」「歴山碑」とは異なる意味を伝えていた。
「森の茂みが朝日で輝いた」。世界で一番美しい名前かもしれない。       

 

編集部

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