湖東・湖北 ふることふみ2
水口と大和郡山を俯瞰した近江人

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2014年10月20日更新

 平城京の頃には羅城門を有し、以降大和国の経済の中心にあったこの地は、豊臣秀吉の弟秀長や江戸時代の有力な譜代大名が治めた拠点だった。
 豊臣秀長は郡山に百万石の城を築城する。しかし詳細な資料は現在に伝わっていない。
 そんな郡山城の天守台発掘調査が行われ、豊臣政権における貴重な天守遺構が姿を見せた。
 小高い丘に築城された天守台は、高さ八・五メートルの石垣が積まれ、上に立つと周囲が広く見渡せた。発掘された礎石から五階建ての建物があったと予想されるらしい。つまり天守の上から奈良盆地がほぼ俯瞰できたことになる。
 天守台の上に立ち、鎌倉時代に日本で二番目に大きいとされた東大寺大仏殿の屋根を見下した時、私はふっと「この風景を見た近江人が居たのか?」と、疑問に思った。秀長に仕えた藤堂高虎や小堀政次・政一(遠州)親子などは築城から関わっていた。そして秀長と養子秀保の死後に城を任された増田長盛はこの風景を見ていただろう。

 豊臣政権末期に設置された五奉行。この第三席に増田長盛がいる。
 出生地として尾張と近江に伝承地が残っているが、私は近江説を推したいと思っている。浅井郡益田郷(長浜市益田町)眞宗寺住職の次男だった長盛が、どのように秀吉に仕えたのかは伝わっていない。秀吉が湖北の人材を集めた時に雇用されたと考えられる。主である秀吉と同役の森可成の娘を正室に迎えていることや、長浜城下の屋敷跡(朝日町)の位置を考えても秀吉に重用されていたことがうかがえる。
 本能寺の変の後、秀吉は越後国上杉家との同盟のため、石田三成を取次として直江兼続と繋がりを持ったとされている。しかし、兼続の所領与板に残されている古文書には長盛の名が多く出てくる(『与板町町史』資料編)。私は個人的な解釈として上杉家の取次は長盛だったと考えている。
 豊臣秀保の死後、東海道を監視する近江水口城から郡山城に二二万石で移された長盛こそ、重要な拠点を任されるに足る人物だった。郡山では外堀を築き城の総構を完成。中央政治では京都三条大橋などの改修工事を行い、今も橋の擬宝珠に長盛の名が刻まれている。
 豊臣秀吉の死後、石田三成が最も頼ったのも長盛だったが、長盛の息子盛次は徳川家康に仕えていて、長盛も家康に繋がり保身を図り関ヶ原の後に所領を没収された。郡山城の建物は伏見城に移築されてしまう。
 大坂夏の陣では、盛次が大坂城に入り戦死。長盛はその責任を負わされて切腹した。
 五奉行として石田三成より多くの石高を得て、百万石の城を与えられていた増田長盛の存在感をその人生を追って知らされた気がした。

 

増田長盛屋敷跡

滋賀県長浜市朝日町2-13
長浜駅に向かい、長浜信用金庫本店の交差点を左折、約50メートル、右側。

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

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