湖水からの眺め

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2014年9月29日更新

 雨の多かった夏が逝った。突然、彼岸花が咲き始め残暑もなかった気がする。近頃、湖の風景がしみるのは思うようにならなかった夏のせいかもしれない。
 僕は、彦根の長曽根にある波止めが大好きである。子どもの頃近くで育ったせいかもしれない。波止めはたくさんの思い出とともに僕の裡にある。正式な名を「波止め一文字」といい、近代化遺産である。
 明治維新、日本は近代的な統一国家を目指し、政府は近代化政策の一つである鉄道建設を明治2年(1869)に決定する。真っ先に着手すべき路線は東京ー京都間。主要貿易港であった横浜、神戸、そして敦賀への枝線だった。よって、琵琶湖周辺を経由する鉄道計画がたてられることになる。
 明治5年(1872)新橋ー横浜の開業以降、明治13年(1880)に京都ー大津間、明治15年(1882)長浜ー柳ヶ瀬間、明治16年(1883)長浜ー関ヶ原間が開通する。しかし、長浜ー大津間の鉄道建設はなかなか着手されず取り残されるかたちとなった。東海道線の全通は米原ー馬場(膳所)間が竣工する明治22年(1889)。彦根市街地から少し離れた青波村古沢に彦根駅が開業するのもこのときだ。
 湖東平野の着工が遅れたのには理由があった。平野部の工事は比較的容易であり、当時の逼迫した政府の財政下において、より建設が困難な区間を優先させ着工し、琵琶湖の水上交通を鉄道の代替輸送機関として利用したのである。日本初の鉄道連絡汽船は、明治15年〜明治22年、東海道線開業まで長浜ー大津間で運航され、これを担ったのが太湖汽船会社だった。
 明治維新以後、琵琶湖ではひらた船や丸子船などの和船に代わり、沿岸の各地を往復するために汽船が建造され、蒸気船の時代が到来する。
 明治16年長曽根村代表者から敷地の無償譲渡を受けて、彦根起港社が設立される。建設費は約12117円。この費用の大半は地元彦根の士族や商工業者100名以上の篤志金・義援金でまかなわれ、旧彦根藩主井伊直憲の拠出額は最も大きく2686円40銭であった。彦根の玄関口となる長曽根港に再起を期待し、人々は県や国に頼ることなく、民間で建設を推し進めていった。
 同年、太湖汽船は鉄道連絡用に鋼鉄製の第一太湖丸・第二太湖丸を建造し本格的な鉄道連絡輸送を開始する。明治17年(1884)7月に竣工した長曽根港にはこの大型汽船が発着する。「明治十九年の時刻表によると、大津・長浜間には一日三往復が運航され、いずれも長曽根港に立ち寄っていた。また長曽根・長浜間にも小型の汽船が一往復していた」(新修彦根市史第三巻 通史編 近代)。昭和2年(1927)彦根駅に近い彦根町外船に新たな港湾が建設されるまで、長曽根港は彦根の玄関口としてその役割を果たした。
 波止めは、長曽港の一部だったのである。今、僕らは湖から離れて生きている。時間距離というのだろうか、昔は湖の対岸がずっと近かった……。歴史を振り返る時、湖水という視点で考える必要がありそうだ。対岸の白鬚神社の鳥居が湖中に建っている理由を知ったときのように、新しい眺めに出会うことができるに違いない。

参考

  • 『新修彦根市史 第三巻 通史編 近代』(2009年)
  • 『琵琶湖をめぐる交通と経済力』編集 財団法人滋賀県文化財保護協会・サンライズ出版(2009年)

小太郎

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