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『柘榴坂の仇討』ができなかった藩士

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2014年9月19日更新

廣福寺(神奈川県川崎市多摩区枡形6丁目7-1)

 桜田門外の変で主君井伊直弼を守れなかった彦根藩士が、水戸浪士の生き残りの首を直弼の墓前に供えるためにその行方を追い続ける物語『柘榴坂の仇討』。
 桜田門外の変の後、いつの間にか明治維新を迎えてしまったイメージが強く残っている彦根にとっては、幕末維新の彦根藩士の心を知る初めてのきっかけとなる映画として注目したい。
 しかし、残念ながらこの物語は浅田次郎氏が作り上げたフィクションであることも忘れてはならない。
 それならば、目の前で主君を殺された彦根藩士はその後何をしていたのか? と、新たな疑問が持ち上がる。実は桜田門外の変で生き残った彦根藩士は、事件の2年後(文久2年)に彦根藩から切腹と言う厳しい沙汰が下った。つまり、仇討ができるような藩士は存在しなかったのだ。
 だが、実は生き残った藩士は存在した。映画化もされた吉村昭氏の小説『桜田門外ノ変』が発表された後、吉村氏は読者から「桜田門から逃げた彦根藩士が寺男となりその墓も存在する」という手紙を受け訪れた寺があり、そこには墓ではなく句碑があった。と、『史実を歩く(文藝春秋)』に紹介している。
 私がその寺を訪れたのは平成20年8月の事だった。
 神奈川県川崎市多摩区。小田急線「向ヶ丘遊園駅」を降りて少し坂を登ると目的の廣福寺に到着する。同じ方向を若い学生たちが多く歩いて行った、後で知ったことだがその先には旧彦根藩士相馬永胤が開校した専修大学があったそうだ。
 さて廣福寺。山門を入り本堂を抜けて石段を登ると、一つの石碑があった。表は達筆すぎる崩し字で解読できないが、裏には「彦城隠士 畑権助 法名秀元 文久三年 歳七十五建之」と、刻まれていた。本堂に戻りご住職にお話を伺うと、桜田門外の変の後すぐに藩を脱し、廣福寺で出家し寺男として過ごしていたのだが、文久2年の彦根藩での処断を聞いて句を詠み、句碑として残したらしい。とのことだった。ご住職は犬塚氏と名乗られる旧彦根藩士のご子孫であり、寺に入られた時に彦根の縁を深く感じられたらしい。余談だが、畑権助と名乗る彦根藩士は史料には残っておらず、偽名とも考えられている。
 廣福寺の句碑の解読は昭和51年に川崎市教育委員会によって行われたが解読できなかった。しかし平成25年に稲田郷土史会の平林勤さんらが解読されたとのニュースが飛び込んできた。細かい読みや解釈は省略するが、平林さんらは「順調に彦根藩に仕えながら、藩を逃亡し、寺で剃髪した。坊主頭と太鼓腹の瓢箪のような自分の首が繋がっていていいのだろうか?」との解釈されている。
 主君の仇を討てなかった、彦根藩士は隠士と名乗り自らを責め、ひっそりとこの世を去った。私はこの人生をもう一つの『柘榴坂の仇討』として彦根の記憶に残して欲しいと願っている。

 

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