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淡海の妖怪

蟹ヶ坂の蟹

このエントリーをはてなブックマークに追加 2019年9月25日更新

 前号で、坂上田村麻呂が悪鬼大嶽丸を討伐の後、「今や悪鬼も平定された。 これより後は、この矢の功徳を以て万民の災いを除くこととする。 この矢の落ちた地に私を祀りなさい」と矢を放ち、矢が落ちた場所に本殿を建てたといわれているのが、厄除で有名な田村神社(甲賀市土山町)である、というところまで話した。今号はその続き、土山宿の名物「かにが坂飴」の誕生奇譚に登場する身の丈一丈(3メートル)の巨大な蟹(妖怪)の話である。
 「蟹」という漢字からして不思議だった。「解」と「虫」である。虫は生き物のことだから、蟹は何かを理解する生き物で妖怪になってもおかしくないと思っていた。しかし、よくよく調べてみると「解」という漢字は「角」「刀」「牛」から成り立ち、牛をバラバラにするという意味がある。バラバラになる生き物、それが蟹なのである。
 全国区では「蟹坊主」という妖怪がいる。『妖怪事典』(村上健司)によると、新しく住職がきてもすぐにいなくなってしまう無住の寺があり、旅の僧が泊まる。夜、何者かが現れて問答をしかけるが、旅の僧がこれを蟹の化け物と正体を暴いて退治する。これが蟹坊主の基本的なパターンだというが、淡海の蟹は全く異なった妖怪なのである。
 昔、鈴鹿の山中に赤黒く光る大きな鋏をもつ巨大な蟹の化物が棲んでいた。蟹は口から泡を吹いて旅人や村人を動けなくして食べてしまうのである。この蟹の調伏に乗りだしたのが、恵心僧都(942〜1017)だった。『往生要集』を著し、法然や親鸞に大きな影響を与えた叡山浄土教の祖である。近江八景「堅田の落雁」で知られる浮御堂は、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。
 さて……、恵心僧都が蟹ヶ坂にさしかかると、蟹は鋏を振りかざし泡を吹き襲ってきた。恵心僧都が真言を唱え、『往生要集』を説き続けると、蟹は自ら甲羅を八つに割り、消えてしまった。恵心僧都がバラバラになった甲羅を埋めて蟹塚をつくると、蟹の流した血が固まり八個の飴になった。それを竹の皮に包んで「この八ツ割飴は、諸々の厄除けに効あり」と村人に授けた。およそ1000年を経て今に伝わるのが「かにが坂飴」である。
 前号の坂上田村麻呂の大嶽丸退治を思い出して欲しい。
 『日本妖怪異聞録』(小松和彦著)に、中世の都人にとって三大妖怪は酒呑童子、玉藻前、大嶽丸とある。大嶽丸は、黒雲に隠れ、暴風をおこし、雷電を呼び、火の雨を降らすと記されている。黒雲、暴風、雷電、火の雨は「たたら製鉄」とイメージが重なる。
 蟹が泡を吹くのも、炉に空気を送り込む「たたら(ふいご)」を想起させる(或いは、熱せられた金属がぶくぶくと泡立つ様子か……)。蟹の赤黒い鋏の色は鉄そのものではないだろうか。勿論、蟹の固い甲羅は金属でできているのだろう。八個の飴は、精錬によって取り出される純度の高い金属を暗示しているのかもしれない。金・銀・銅・鉄・鉛・亜鉛・錫、そして水銀だろうか。
 獣や甲殻類、鬼の名は時の政権に対立した集団勢力である。蟹も大嶽丸も鈴鹿山中の製鉄・精錬に長けた一族だったに違いない。都や比叡山の勢力は、土山から伊勢に抜ける街道を制圧し、技術を我がものにした。厄(災い)は転じて福(吹く)となったのだ。その約束の地が田村神社なのである。面白いのは、巨大蟹に対峙したのが比叡山の恵心僧都だということだ。何故、恵心僧都が調伏に乗りだしたのか……。平安時代の宗教勢力が関わっているのだろう。まだまだ勉強が必要である。

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