淡海宇宙誌 XXVII 記憶の始発駅
ある駅に建て替えの計画があって、近隣の人々が、これからの駅の在り方や使い方について会議を重ねています。先日、呼ばれてお話をしてきました。
さあ、どんな駅を作ろうか。
でも、その前に、百年もそこにある駅について、みんなはどんな思い出を持っているのか。駅という建物はどんなふうにみんなに経験されてきたのだろう。
うんと昔は駅前の人でも汽車に乗るなんてことはめったになくて「汽車に乗った記憶の最初は、親に連れられて京都のマルブツ百貨店に行った時のこと」。次の記憶は「お伊勢さんへの修学旅行。この駅前に集合してた」。毎日そこに眺めているのに特別の場所、違う世界の入り口だった。「住み込み奉公だったから、通勤なんてなかったなあ」。
駅という場所の意味も百年でいろいろ変わっているようです。
僕にとっての駅の記憶の始発といえば、乗り降りの場所というより、誰かをワクワク「待つ場所」なのでした。
毎年夏を過ごした田舎の、小さな駅でした。祖母が隣町に勤めていて、夕方電車で帰ってくるのを、毎日迎えに行った。
お宮の森でヒグラシが鳴いている。枕木のにおい。人気のない駅は「間もなく来ます」のお知らせもない。けれどやがて、駅員さんが出て来る。向こうで踏切が鳴る。線路の響き。そんな「きざし」がかえって気持ちをかきたてました。
田んぼの向こう、カーブの先に車両が見える。ゼロゼロとすごい音をたて、ディーゼルカーが停止する。ドアが開く。一人…二人、「ア、おばあちゃん!」
あんなにワクワク待ち焦がれたのに、なんだか急に気恥ずかしくて、ちょっと隠れてみたりしたのは、さびしんぼうをさとられまいとしたのかな。