淡海宇宙誌 XIII 居合わせから仕合せへ
人間は、その人が自分のために何をしてくれるか、そのことの度合いによって、相手に対する尊敬の念や愛情を加減するような生き物ではありません。
自分の家族を思い浮かべれば明らかなように、僕たちは、相手がただそこに居てくれるということを尊いと思い、嬉しいと思い、喜びとして生きている。妻や子や父や母や、友や隣人が、ただそこに居てくれるということを力とし、救いとして生きていく、そういう生き物です。
ある人がそこに居るというそのこと自体が別のある人の生きる力の源であったり、救いであったりするとき、それは人が人を「居守る」ことだ、と僕は思います。親子や友人、隣人同士は、いつでも互いに「居守りあって」いる。
そのように、それぞれの誰かを、あるいはそれぞれの場所を、それぞれの仕方で「居守って」いる人同士が、こんなに広いひろい宇宙の中のある場所で、こんなに永いながい時間の中のある時出会う。それが「居合わせる」ということです。
一人ひとりの「居ること」は尊い。その上で、僕たちはただバラバラにどこかに居るだけではなくて、さらに互いに「居合わせる」ことができる。
「居る」を「合わせる」というのですから、そこにはちょっぴり僕たち自身の意志もかかわっているはずです。
そうして、ある場所である時起こった「居合わせ」を出発点として、思いがけない新しいことが起こったなら、それが「仕合せ」なのだと思います。
僕たちはいま全員が、未曾有の未知の出来事の中に、はるか距離を超えて、「居合わせて」いる。抗いがたい力によって、「居合わさせられて」いる。僕たちは、このかつてない「居合わせ」の経験からも、ひとつ、またひとつと「仕合せ」を育むことができるでしょうか。